#後半に、病院での様子の写真があります。
キツイ人はご注意!
みんなも、知ってるように、藤野君が亡くなりました。
ご家族のお話からすると、眠るように命の終わりを迎えたようで、苦しくて苦しくて死んだのではなかったとのこと。
みんなにとって藤野君は、
パパの仲の良いお友達で、カレーワゴンにも付き合ってくれていて、スーパーマリオの天才。
と言うところでしょうか?
みんなは、パパが美術のテレビ番組を作っていた事は知っていると思います。
ずっとずっと遡ると、後藤智江先生の裏方スタッフの中に、BEPPU PROJECTの山出さんや、詩音さんの赤い風船詩音を書いてくれた阿部浩二さんなど居て、その友達の輪が広がり、やまばと幼稚園でもお世話になっている、二宮圭一先生にたどり着きます。
1994年の夏、パパは二宮先生を訪ね、「TV番組作りませんか?」と言い出します。
いろいろあって、1994年11月21日23:30からスタートしました。
二宮先生は、芸大に行きたい生徒達に絵を教える塾をしており、首藤君やアベタイスケさんもここの生徒でした。
そして、藤野君も、ここの生徒でした。
藤野君は、1975年10月5日生まれ
生まれた頃から病気がちで、のちに、アスペルギルス肺炎という難病だと判りました。
これは身体が、ばい菌に対する力が弱いために、すぐにやられてしまう事が原因です。
藤野君は小さい頃から入院を繰り返し、小学校も院内学校だったとの事。
それから、二宮先生の塾に入り、首藤君などと楽しく過ごした様です。
パパの番組にも「芸術家」として出演してもらったこともあります。

1998年11月放送分より
若い頃は、病気で、肺炎だと言うのに、煙草を吸って、酒も飲んでました。
パパと出会ってからは、パパの仕事を手伝ってもらう事もあり、幼稚園の作品展などで活躍してくれました。
しかし、カビには敏感で、幼稚園のホールはカビが多いと藤野センサーが反応したため、それ以後は幼稚園に来てもらう事はなくなりました。
藤野君は、オレオレ的な所はなく、じっくりと観察して、しっかりと自分の意見を持っていました。
パパがカレーワゴンを始めるときも、それ以後も、ずっとファンで居てくれました。
入院している時以外は、開店記念日は必ず来てくれてました。
そして、パパが、世界でたった一人だけ、「お客様に出す商品を任せられる人間」と認め、カレーワゴンの第2店長としていました。
藤野君は、カレーワゴンでの体験で、ドームの大混雑を強烈に覚えているようでした。
実際、売り切れでお客から殺されそうな勢いで怒られてしまったので強印象です。
若草公園の、まちなか市場は、みんなで行きましたね。

アフリカンサファリでは、なくてはならない人でした。

藤野君が粉つけしたカラアゲは、ほんとに美味しくて、売上げもよかったです。
一日に70キロ売った事は、二人の勲章でした。
かき氷をしたときは、ママもいっしょで、藤野君の車に鳥が食い込んだと大騒ぎしました。
上春日の12月のパーティーも、いつも来てくれていました。
ぎんなんや、シシ肉を持ってきてくれていました。
これまで、なんどか死にそうになっていた、藤野君。
今回も、そうであって欲しいと、思っていました。
2017年1月に入り、大分医大病院に入ったとは聞いていました。
だけど、ばい菌の抵抗力がないので、子供がいる家庭のひとは面会できないと、会えませんでした。
ずっと、気になっていました。
2月16日に、からあげが食べたいと、メッセージが届くが、5個食べる元気が出るまで待つという。
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セブンの唐揚げ飽きました。 中国産の味がします
食えるんなら、持ってくぞ
いつが、いい?
食欲はゼロです
まあ、そら、キツかろうで
ケンタッキーとか食べたいけど、ひとくちで良い感じなんです
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パパは、心配になって、
「行っちゃいかんのか?」と、聞きました。
もうちょっと待って欲しい、馬場さんに来てもらうとき、ニンテンドーSWITCHを期待しているとバカな事言う位、元気だった。
3月22日、面会OKと、言うので行きました。
重大な選択に迫られていました。
A案:このまま様子を見るが改善はしない
B案:気管挿入すると「改善の可能性」はあるが生涯しゃべれない
「馬場さんならどうしますか?」と聞いてきた。
パパは、C案を探すと答える。
ただ、それには、もっと体力を付けねばならんから、ウマイ飲食ブツ作るよ、と、パパは藤野君と約束をした。
その夜から、昼夜を問わず、二人で、メッセージを繰り返した。
・藤野君が馬場塾の生徒だった時の事
・藤野君は、カレーワゴンのデザインをしたかった事
・再び二人でカレーワゴンに乗りたい事(出店)
・馬場さんに泊まり付き添いに来て欲しい事
・残される家族に恩返しがしたい事
・死に直面して恐怖におびえている事
3月23日の夕方、TVの延長ケーブルが欲しいとおねだりアリ。
話を聞くと、気合いをいれて病気と闘うから、TVを見やすい位置に移動するため、長いケーブルを買って来て欲しいって。
パパは、藤野君のやる気にうれしくなって、すぐに狭間AEONで買って、一応、Switchの無い事を確認して病室へ行きました。
歩けないのでオムツをしてるんだけど、足を広げて「馬場さん、オムツ!」とふざけてました。
藤野君と会ったのは、これが最後。
パパは、さっそくペースト状の介護食の研究を始めた。
それと同時に、スープの準備を開始。 3月24日の夜のこと。

これは、3人が、赤ちゃんのときに、離乳食で食べた、命の始まりのスープ。
その事も連絡をして、楽しみにしてくれてたみたい。
すぐに持っていきたかったが、パパは城址公園の祭りがあり、そのため面会時間に間に合わず、スープが出来上がる状態を、メッセージで紹介していた。
3月26日の日曜日になんとか持っていこうかと思っていたが、パパの都合で行けずじまい。
藤野君からは、固形物食べられないと判っているのに
「馬場さんの唐揚げが食べたいです。」とメッセージ。
これが、藤野君が馬場さんに送った最後のメッセージ。
27日の月曜日、夜ご飯に持って行ければ良いな、と準備を進めていた朝 9:53。
ご家族から「夜中から危篤になりました。もう意識はありません。」と。
都合が悪いことに、この時、冷蔵庫の引っ越しのため、大人数が上春日に来る予定だった。
その為の準備をしており、工事の都合上、止められない状態。
15時にはなんとかなるので、終わり次第行きますと、返事をした。
だけど、2017年3月27日11:48 藤野智久 永眠
最後に会えなかったし、スープも出せなかったし、からあげも渡せなかった。
結局、15時に大分医大病院に行くと、首藤君とタイスケさんが居て、藤野君の希望で病理解剖が終わるのを待った。
17時に、霊安室に呼ばれ、藤野君と再会。
もう、お話はできません。
藤野家の葬式は、家族と地域の人が、きっちりとやるようなので、パパたちは出番はなく、解散。
3月28日 通夜だったが、宗さんの用事が前々から決まっており、ちょっと早めにお参りだけして退散。
3月29日 葬式
11時から始まり12時で終わったが、パパと首藤君・タイスケさんらの数名は火葬場まで行くことに。
お骨を拾わせてもらい、物理的な藤野君と、お別れをした。

その後、藤野家のお疲れ様会に参加して、パパ達は解散した。
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今回、藤野君が、死ぬ直前に食べたかった、からあげを食べさせて上げられなかった。
もちろん、気管挿入なので、物理的にムリなんだけど「食べたい」と言う人に届けて上げられないのに、料理人をやっている意味があるんだろうか?
実は、この失敗は2度目で、山崎正巳Gちゃんの時もそうだった。
http://diary.bbu.jp/2006/05/29/ふたりの山崎正巳と過ごして/
正巳Gちゃんは、死んだ年の正月に食べたステーキがもう一度食べたかった。
みんなで療養先の陽光園に行くときに、パパがホリズミのステーキ肉を数日間かけて味付けをして最高の状態で食べさせて上げた事があった。
それがとても美味しかったんだろう、それを食べたいって、死ぬ2日前に、Gちゃんはママに言った。
ママはそれを聞いて明日出来ないか?と言うが、急いでも3日間ほどかかる物だから明日はムリだよ、と簡単に終わらせた。
そして、正巳Gちゃんは、2日後、ステーキを食べられず、亡くなった。
それが、とてもトラウマになっていて、またしても藤野君で大失敗。
パパは、料理人の資格がないのかもしれない。
でも、一方で、辞めたら、藤野君が悲しむかな。
以上