冒頭のインタビューから落涙する。
マイケルのライブは本人だけでなく多くのスタッフで構成されていて、マイケルから指名による参加とオーディションによって選ばれた者だけがその場に立つことが許される。
世界一のスターと共演できる権利を望む者は多く、チャンスをつかみに門を叩く者はその扉の前にして、既に一流であり最高の存在である事は間違いない。
マイケルのオーディションに参加する事は自分を出し切る事や100%のコンディションで臨む事など当たり前すぎて議論にならず、自国・地元では頂点に立つ者でさえ平等な程の僅差の中、行われるオーディションは偶然の立ち位置やグループ割、照明の位置やマイケルからの距離、そして運すら左右されるのかも知れない。
数分あるいは数秒の中で自分が積み上げた人生を出せた者だけが生き残れる場である。
その緊張感は何事にも例えがたいのであろう、しかし合否の結果を受けて全員が歓喜に包まれている様子からその場の出来事は合否に関わらず、左右の道に別れたとしても参加者の生涯の宝モノとなっていく。
私はダンサーではないが、もしマイケルのライブスタッフに参加出来るのなら例え会場のパイプイスを並べる担当だとしても全てを置いて参加したいと思うし、インタビューにあるように「飛行機に飛び乗った」と言う青年の気持ちは理解出来る。
マイケルがライブの完成度に注力する姿勢の中で学ぶべき事があった。
程度は低いが私は何かしら物作りに携わる仕事をしていて、出来るなら自分の思った通りの位置を目指した結果に到達したいし、機会を積む度に質を向上させて行きたい。
マイケルもその姿勢がすべてだと思っていたが、キーボード担当と演奏速度について調整を行うシーンの所で「観客のイメージ通り」にしたいと言う。
これは飲食の世界で例えるなら「この店のこの味」と言うところだろうか、料理人が毎日同じ味を作り続ける中で、より良いものを目指して改良する事もあるだろう。
しかし消費者がそれを望まず「いつもの味」を求めているとしたら料理人が高い位置を目指すプロ意識が逆に作用して消費者の期待を裏切る事もあるかもしれない。
マイケルが世の中にリリースした曲は、多くのファンに愛され、何千回何万回と繰り返し聞かれているとすればファンにとってのマイケルの曲は僅か数%のブレやタイミングの違いすら違和感を抱かせ、ファンの中にあるマイケルの作品と違うものになってしまう。
自分の作品を世の中に出すと言う事は、その後永遠に同じものを再現し続ける責任と維持する能力を保ち続けねばならないと言っていると私はこのシーンから感じた。
だがその反対にライブでこそ味わえる生の醍醐味を来場者に体験させるために、大切な事は保ちつつもダイナミックなアレンジも必要なのだろう。
余談だが、ダンサーにレッスンをするインストラクターが「バリシニコフ」の例えで振り付けを解説しているシーンがあったが、ここに採用されたダンサーは当然バリシニコフと言う単語とその例えの意味を理解出来て当たり前なのだろうなと思った。
マイケルとデュエットを担当する女性シンガーは子供の頃からマイケルに憧れてきた上での参加で、近距離のリハーサルは緊張で自分を出せずに必死の様子が伺える。
歌唱の精度で言うなら彼女より上位の者はたくさん居るだろうし、女性的なスタイルや美醜の度合いにも様々な解釈があるだろうから、マイケルに選ばれる事はそのような風評にも対峙しなければならない。
選ばれた責任もさることながら、選んでくれたマイケルに恥を欠かせない為に出来る事をやり遂げる精神力も想像以上に大きいものが求められるのだろうと思う。
マイケルのライブで演奏を担当するミュージシャンは時の人を選ぶ事があるそうで、このライブでも、マイケル自身がyoutubeから見つけてきたオリアンティ(ギターリスト)を起用している。
当時20歳代半ばの彼女を対等に扱い、ライブの中でソロパートの部分を設け「ここは君の見せ場だ」と敬意を示し、より高みを目指した演奏を促している。
もちろん演出・音響・照明・衣装・道具の全てのメンバーも自分の仕事に誇りを持ち、マイケルと共にライブを作り揚げることになんら疑問を抱いていない。
物作りをする中で、作者が一人で進めていく方法もあるし、複数の人間が協力しあって意見を出し合い、より大きな成果を出していく事もあるだろう。
方法は様々だとしても、マイケルの姿勢の中に見える「ファンのため」と言う制作基準はいろいろな物作りの現場でも適用できる事だと思う。
本作はライブを作り上げていく経過のドキュメンタリーであるが、マイケルが曲を作って行く課程も見たかった、今となっては叶わぬ事になってしまった。
最後に、マイケルは音楽活動を通じて、平和や愛や自然の大切さを訴え続けてきた。
ダンスと歌唱がバランス良くこなせる日本のとあるタレントに対し「和製マイケル・ジャクソン」と言う表現がつけられているが、もちろんファンの間では非難の的であるし、噂によれば当のタレント自身も良い表現だと思っていないらしい。
呼称を用いるメディアにも慎重な扱いをするべきだと思うのだが…。
自分の事をマイケルと同列に扱う気はないが私も戦闘やいがみ合いの状態よりも、穏やかな日々が続くことを願っている。
しかし具体的な行動に出ることは難しく、また何から手をつけて良いのか模索している間にマイケルが去った50歳を超えてしまった。
私がマイケルの言動を知り感じた様に、もっと多くの時間をマイケルに費やしてきたファンの方々は、マイケルが大切にしてきた愛について行動を始めているのだろう。
であるならマイケルは今もなお現実として生き続けている。
本作の中、もしくは後半で劇場公開映画に見られる「END」と言う単語が見当たらないのは「終わりではない」と言う事を暗示しているのかもしれない。