ふたりの山崎正巳と過ごして

会話を交わした、山崎正巳と、
無言を交わした、故山崎正巳と、

ふたりの山崎正巳と過ごした、数時間の出来事から綴った。

2006年5月26日 22時

佐和子が、正巳の容態について、説明を受けるからと、
大分県立病院に向かった。

紗代実と、私は、しばらくリビングでごろごろしていたが、
飽きてしまったのか、紗代実は寝てしまった。

紗代実をそのままリビングのクッションに寝かせたまま、
私は、自室で、翌日の披露宴出席&写真撮影の準備をしていた。

なかなか、佐和子が帰らないが、「正巳が帰るな」と言ったか、
「あや子が帰るな」と言ったか、これまでも、遅くなることもあったので、
ただ、自分の作業をしていた。

2006年5月27日 02時

佐和子が帰ってきた。

「遅かったなー」と、言うと
「どうも、じいちゃん、悪いみたい」

このやりとりも、私は佐和子と結婚以来、数え切れないほど聞いており、
いまさら、驚きもしないが、容態については、
知っておきたかったし、そのまま佐和子の説明を聞いた。

肺炎から、肺の機能が低下している事が主たる病状だが、
高血圧や腹部大動脈瘤との関係で、肺炎だけの治療を徹底できず、
現状の措置(酸素吸入・点滴)で、生存を確保し続ける状態だという。

場合によっては、気管挿入による呼吸維持も選択肢として考えられるが、
それは「延命」でしかないと、医者の説明があったようだ。

これまで、正巳の病状悪化の説明の中に「延命」という言葉の登場は
初めてであり、それが状況を的確に表すキーワードであったと思う。

そして、佐和子の提案で、朝起きたら城崎一家そろって、見舞いに行くという。

ところが、私は新規事業の関係者と、定期的に行っている重要な会議があり。
「おれ、行かれんで、10時の打ち合わせ終わってからならいいけど、
でも、15時から、披露宴だからなー、ちょい顔出しになるな」

佐和子の表情に
「こんな状況で、仕事優先なの?」という部分も感じてはいたが、
今回は「自分が主導で集めた会議」ゆえ、なによりも最優先である。

2006年5月27日 10時前

私は、打ち合わせ会議の場である、大分市今津留へ。
佐和子と子供達は、大分県立病院に出かける。

マンション1Fで、
「ふんじゃ、終わったら、そっち行くわ」と、私の車が動き出す。

10時丁度に、打ち合わせ場所に到着し、集まった面々に、
「ちょっと、うちのじいさん、調子悪くてな、
この後、病院なんで、さっさと進めてくれ」

私のじいさんの存在を知っている人も、知らない人も
「ああ、じゃ、資料の確認を先にしましょう」

2006年5月27日 10:21

佐和子より、メールが入る
「荒い息で、栄養の穴を肩にあけた」

打ち合わせの話を耳で聞きながら、目でメールを読んだ。
(こりゃ、さっさと行かんと、ならんなー)

10:30に、打ち合わせを終えて、移動開始。

実は、新規事業に用いる中古車両の見学をこの後に
考えており、物色先を調べておいたのだが、
それも中止して、病院へ向かう。
※焦って買うな、という正巳の警告だったのかな。

立子も、病室へ来ているとの事で、
以前約束した「たこやき」を求めて、下郡くらし館へ立ち寄るが、
まだ開店してなかった。

佐和子のメールで、
「お昼を買って来て」と要望について、
県病近くの、吉野屋で、ぶた丼を6個買って行く。

2006年5月27日 11時過ぎ

私は、大分県立病院の5Fに向かった。

部屋に入り、荷物を置いて、正巳のベッドの側に行く。

「じいちゃん、どげーな」
酸素吸入を顔にかぶせ、いくつもの点滴を身体にまとい、
検査機器のモニターの点滅を横にした正巳の側で、
しばらく返答をまった。

少し、面倒くさそうな感じで
「あー、コンピュータ、もっとせんといかん」

聞き取りづらかったので、聞き返すように、

雅治:「三信工業は、ちゃんとしよんやねーな」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「いいけど、金かかるで」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「わかった、ちょっと計画立て、相談するわ」
正巳:「あー、・・・・・」

また、しばらく、静かになった。

私と、「山崎正巳」が交わした最後の会話だ。

呼吸は荒く、胸がひどく痛むようだ。

「あー、いてぇー」
「先生にいうちくりー」
「水くれ」
「あやこはどこにおるんか」

今週に入り、ずっとこういう状態に付き添ってきた
私の義母である、あや子は、他の整理の合間に、
ベッド脇に戻っては
「はいはい、じいちゃん、だいじょうぶ」
「いーいー、文句言わんで、大丈夫」
「ほら、詩音ちゃんも真凪ちゃんも、おるでー」
励ましつつ、周囲の状況を示しながら、身体をさする。

27日午後になって、
正巳の容態悪化を知って、親族が病室に集まってきた。

付き添い者控え室がある、大きな個室だったけども、
さすがに10人近くが入ると、息苦しい。

私は、子供達と、付属の和室で、買ってきたぶた丼を食べ、
時折、ベッド枕元に、顔を見に行くが、特に何をすることもなく、
時間だけが過ぎていた。

集まってきた親戚の中には、かなりご無沙汰の人もいるようで、
正巳も、思い出話を含め、近況を聞いていた。

酸素吸入の装着のためか、呼吸困難のためか、正巳の細い発声に、
なれてない親族は聞き取りづらかったようだ。

あや子が、適切に通訳し、見舞客との間をとりもった。

正巳の苦痛は大きくなってきて、息も荒くなり、
見舞者との会話も難しくなってきた。
発する言葉は、
「いてえ、なんとかしてくれ」
「先生、よんじくりー」

周囲は、見守るしかなく、静かな中に正巳の苦痛と
酸素吸入の排気音だけが、響く。

いまでも、耳に残る、
「もー、どーでもしちくりー」と、
私が、正巳に出会って、始めて聞いた「降伏」の一言だった。

ほどなく、医者が麻酔などの措置を行い、
時間と共に、苦痛は和らいだようだった。

再び、静かな病室になった。

私は、することもないので、県立病院内を散策したり、
子供達と、一緒に、近所のドラックストアに不足物を
買いに出たりしていた。

2006年5月27日 14時

私は、15時から、大分市内のホテルで行われる
結婚披露宴に呼ばれており、カメラマンの大任を受けていた。

私が以前勤めていた会社の直属の部下であり、
モダンダンス教室のスタッフ同士であり、
山崎家の親戚でもある、松野ひろみの結婚式だった。

一度城崎に戻り、昨夜から準備していたカメラ機材の確認や
着替えなど、15時に会場のホテル到着を目指して進めた。

披露宴は、衣装替えも少なく新郎新婦と一緒に過ごす時間の多い進行で、
各テーブル毎の記念撮影など、フレンドリーな宴席だった。

2006年5月27日 18:00

式の最中、佐和子からメールが入る。
「悪くなってる」
泊まりになるので、子供達の着替えをもって来てという内容だった。

2006年5月27日 20時過ぎ

私は、城崎に戻り、再度県病に赴くために
子供達の着替えや、不足物を準備して、
披露宴の写真を1枚、デジカメプリントした。

宴席の飲酒のため、タクシーで移動した。
※披露宴会場から帰宅する際に使ったタクシー
降りた後、「すまんけど、この後、県病にいくから待ってて」とお願い。
20分近く、メーター無しで、待ってくれていた。

2006年5月27日 21時前

病室に到着すると、見舞者の人数が増えており、混雑していた。
直方のおばちゃんなども来ていて、
私も「おひさしぶり」と、ご挨拶をあちこちと。

もってきた、披露宴の写真を、あや子に渡して、
正巳に見せる。
「おじいちゃん、ほらひろみちゃんの結婚式の写真、
雅治君がもってきてくれたよ、見らんね」

薄目を明けて、見ていたようだ。

私は、昼の残った、ぶた丼を見つけて、入院者食堂で
レンジして、食べた。

佐和子も、ずっと付き添ったままで、疲労がみえ、
子供達も、子供ながらに疲労感と戦っていた。

正巳は、披露宴出発前に見せた苦痛の叫びをすることもなく、
一定の間隔で、静かに眠っていた。

22時を過ぎ、

23時を過ぎた。

時折、様子見に入ってくる看護師さんの様子をみて、
見舞者・親族は、安定状態を感じた。

誰かが
「0時くらいまで、おったら、ええんちゃいますか」
という提案に、賛同する人たちが、ひとまず、
今夜の見舞にキリを付けていった。

私どもも、昼間の苦痛に様子から一転、
安心して眠っている様子から、ひとまず解散をお願いした。

2006年5月28日 00:10

最後の見舞者が帰ってしまって、
結果、山崎家の8人+岩見のおばちゃんになった。
岩見のおばちゃんは、立子の付き添いもかねて、残ってくれた。

子供達は、病院標準の付き添い者控え室で、眠りにつき、
岩見のおばちゃんと、立子は、病室の控え室で眠りについた。

立子は、自分の夫の様子が心配で、眠れない様子だった。
しかし、立子自身も、健常とは言えず、体力の限界を超えていると
感じられ、あや子や佐和子の説得で、布団におさまった。

正巳を囲み、あや子・佐和子・雅治で、正巳の身体に付き添った。

私は、血の通わない足のむくみを解消すべく、さすり続けた。

そういえば、正巳の身体に触れるなんて、出会ってから初めての行為だ。
※腰をもんだことくらいあるか。

指先から、土踏まず・足の甲・かかと・アキレス・ふくらはぎ、
と、むくみを絞り上げていく。

生まれて、89年ちかく、大地を踏みしめ、
シベリアの地で生き抜き、三信工業を一大企業に仕上げた
その偉人の足に直接触れ、私は涙が止まらなかった。

170cmの大柄な正巳であるが、
その身体と活動を支えた骨格は、立派なモノであった。

この足で、立小野川で悪さをしたのだ
この足で、大分工業高校まで通ったのだ
この足で、戦争に参加したのだ
この足で、三信工業所を起こしたのだ
この足で、立子を愛したのだ
この足で、三信グループを通じ多くの幸せを実現して来たのだ
この足で、佐和子と私の結婚を認めてくれたのだ
この足で、詩音・真凪・紗代実を抱き上げてくれたのだ

まだ、私のこの手に、そのときの感覚が残る。

そんな偉大な足に、もう力は無かった。

味噌樽の中で、手を握り締めているように、
握っただけ、指がなかに埋もれていく。

私自身も、このマッサージによって、正巳が回復するとは思ってなかった。

しかし、充血し、青みがかった足先を見ていると、
それだけでも、なにか解消してあげなくてはと、じっとしてはいられなかった。

あや子も佐和子も、いま自分に出来ることは、
正巳の回復に繋がるとはおもっていなかっただろう。

ただ、大好きだった彼が、いま最後の時を刻んでいる間に、
すこしでも負担を減らし、シンプルに、そしてスマートに進ませたい。

そういう思いだったと思う。

そんな三人は、自然と、正巳を通じて、被った迷惑な話し、
いまだから言える話などが、出てくる。

時折、大笑いをして「あ、起きると悪いから静かにしよう」と。

しかし、正巳は寝てはいなかった。

2006年5月28日 00:36

担当医が、回診にきた。

特に、なにかの処置をするわけでもなさそうだ。

「先生、いまどういう状態なのでしょう」
こちらの質問に、医者は、言葉を選びながら
しかし、私と佐和子の理解度にあった説明を始めた。

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要約すると、測定機器のメーターの数値を引用して、
・呼吸数85
・酸素量25
というのは、生存している状態ではない。

眠っていると思われたかもしれないが、酸素量25というのは、
低酸素状態であり、生きていくための数値ではない。

夕方から低酸素状態が続いているので、
すでに、脳は徐々に機能を停止していると思われ、
そのために、痛みも感じなくなり、身体の反応も無くなってくる。

声をかければ、反応はするが、瞳孔反応は無くなっている。

このままのペースでなら、呼吸量が50を切ると最後だろう。

時間は、人によって違うので、コメントできないが、
1〜2時間ではないだろうか。

もし、移動に時間がかかる遠方の親族がいるなら、連絡をしたほうがいい。
================

そう聞かされて、佐和子と私は、対応が一変した。

2006年5月28日 01:00

測定器の呼吸量が70を切った。

あや子・佐和子は、帰宅した親族に、
もう一度、集まるよう、電話をかけに、病室を出た。

私一人、正巳のメーターを凝視していた。

見回りの看護士さんが、メーターをみて、私にいった。
「氷枕を外しますから、頭を持って下さい」
言われるままに、正巳の頭を抱きかかえた。

たしかに、いま自分の腕の中にある正巳の様子がおかしい。

看護士さんは、
「もしものとき、心臓マッサージはどうしますか?」
少し考えたが、佐和子もそう言うだろうとおもい
「母やカミサンに聞かないとイカンですが、
無理に時間を延ばすだけなら、無理はナシで」

2006年5月28日 01:04

看護士さんの所見で「呼吸が止まった」と言われる。

正巳を見ると、確かにそうだった。

あわてて、電話をかけにいった佐和子・あや子を呼び戻す。
寝ている、立子・岩見のおばちゃんを起こす。
子供達も、起こしてきた。

山崎一家が、そろった時、測定器の数値は、ゼロを表示していた。

2006年5月28日 01:25

担当医が来て、心拍の完全停止を待った。

詩音・真凪に、「おじいちゃんになに言ってあげて」と佐和子。
でも、子供達は、声がでなかった。

死が近づく現実に、対処しようがないようだった。
詩音は、そんな自分がくやしくて泣き出してしまう。
真凪も、外には見せないが、この状況を自分の言葉に全力で整理処理していた。

電話連絡で、呼ばれた親族が、再び、病室に集まり始めた。

このときは、まだ、検査機器の心拍グラフに反応があった。

2006年5月28日 01:35

みなの見守る中、血液中に残った酸素だけで、動いていた心臓が停止した。

心拍グラフは、一直線を描いた。

医師の診察により、2006年5月28日01:35,死亡が確認された。

そばで、様子をみていた、立子が、立ち上がって、
正巳の枕元に覆い被さった。

号泣した。
「このバカたれ、私をひとりにしてから」

見合い結婚で、大分の片田舎につれてこられて、
苦楽を共にし、時には競い合い、時には慰め合い。

夫婦であり、会社の同僚であり、ライバルであり、友人であった。

晩年は、互いに身体のことを気遣い合って、
入院先の病院から、外出許可で、相手を見舞う、なんて、
破天荒なラブストーリーを見せてくれた、正巳・立子夫妻。

夫婦の一人が、永遠の存在になってしまった。

83歳で、未亡人になった立子を、私たちが守っていかねば。

———————————————–

その後、遺体処理などが施される間、あつまった親族は、
それぞれの思いにそって、帰宅組・遺体に同行する組とした。

病室から霊安室に移動し、
残っている親族・担当医・看護士と、焼香を頂いて、
霊柩車を待つ。

もう、私は、山崎正巳に、会うことはないのだ。

生と死の狭間で

山崎正巳は、「故山崎正巳」になった。

私の生涯で、ふたり目の「山崎正巳」との生活が始まる。

2006年5月28日 03時過ぎ

立小野に、正巳の遺体が帰ってきた。

近隣の皆さんの配慮で、すでに床の準備などが成されていた。

佐和子は、葬儀の喪主として、打ち合わせに参加した。

子供達は、眠ったり、遊び回ったり。

私は、することもないので、正巳の遺体に付き添った。

9時に、お寺さんが来て、お経をいただくらしい。

近隣の方達が、夜明け前だというのに、何人かが弔問に
来て頂いた。

さすがに、私も立小野の地の人になると、知らぬ方が多い。

帰宅より、とおるさん、という方が付いていて下さったが、
その方も、夜明け近くには一度、ご自宅に戻られた。

9時のお経までの時間のなかで、
正巳とふたりっきりになる時間帯もあった。

「じいちゃん、どうやったんね、89年?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうにいったら、誰にあうかな?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、なにかやり残したことあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番たのしかったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番辛かったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の自慢は、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の失敗を、いまなら話せるだろう?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうに持って行きたいモノあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、もし50歳若かったら、おれと友達になったかな」
「・・・・・・・・・」

故山崎正巳と、無言を交わした。

「じいちゃん、この先おれになにかしてほしいことあるかな?」
そう問いかけたとき、口元が動いた。

「だれかに・なんか・しちゃれ」

私には、そう聞こえた。

正巳と私は、会社の会議で、口論になったりすることが多く、
意見が合わないと、思われていると感じている。

そんなことも含めて、いくつかの事を、いっしょにやったり、
相手がやっているのを、互いに見守ってきた。

自分のことのようにうれしかったこともあれば、
激しく非難したこともあった。

しかし、「生き方」として、
なぜ、私が正巳を好きなのかというポイントが、
「だれかに・なんか・しちゃれ」
という精神に、共感しているからだと思う。

「だれか」
その誰かに出会うために、友達を増やせ。
人の集まる場所にどんどん参加しろ。
営業に配属されて、外を見て回れ。
「なんか」
自分が何をすべきか探せ。
世の中の面白いことに興味をもて。
あたらしい技術を模索しろ。
「しちゃれ」
出番が来たときに、能力を発揮しろ。
なにを要求されてもいいように能力を身につけろ。
やるなら生涯面倒見るくらい、やれ。

そういう、話を、無言で語りかけてくた。

今思えば、生前、至る場面で指摘を受けたり、思い出話を聞いた中、
この要素を感じて欲しいと、私に伝えていたふしがある。
もちろん、私だけではなく、佐和子にも、子供達にも、
会社の人たちにも、そういう話をしてくれていたと思う。

正巳は、三信工業グループを生み出したことによって
数え切れないほど「だれかに・なんか・しちゃれ」を実践してきた。

もう少し長生きしてもらって、再び会社にもどって、
それら一部でも、学べればよかったのかな、とも思うが、
正巳が生み出したすべての現象は、正巳にしか達成できない事だ。

もし、山崎雅治に期待されていることが
「だれかに・なんか・しちゃれ」
というのであれば、私なりの方向と手段で達成していくし、
そして、佐和子も同じく、佐和子の方向と手段を見つける。

子供達にも、そういう事が当然の生活をさせていくのだろうと感じている。

2006年5月28日 09時前

お寺さんが見えて、正巳に、帰宅のお経を上げて下さった。
近隣の方も、時間を合わせて、たくさん来て頂いた。

2006年5月28日 10時過ぎ

さすがに、佐和子も私も、あや子も立子も、
24時間以上、ノンストップで事に当たっており、
休むことにした。

城崎一家は、車で、家に戻り、紗代実をのぞく、
女全員が、気絶するように、部屋へ倒れ込んで、寝入った。

私も、立小野で食事をしてなかったので、あれこれ口に入れ、
緊急に連絡を取るべき所に、一報を発した。

私は、シャワーをして、ベッドで、20分ほど寝入った。

ひとり元気だった紗代実が、その空白の20分間で、
詩音を叩き、おもちゃを散乱させ、佐和子のめがねを破壊した。

元気だ。

2006年5月28日 13時過ぎ

14時に出棺の予定があるため、のんびりしていられない。

身支度を調え、私と真凪チームは、春日であや子を乗せて、
再び立小野へ。

立小野に到着すると、ほどなくして、霊柩車が来た。

佐和子チームも到着した。

出棺準備に入ろうとする葬儀社を制して、家族の儀式を行った。

紗代実のモチ踏みだ。

1歳の儀式を、紗代実の誕生日、4月18日に行う予定であったが
その時は、すでに正巳は、入院していた。

正巳の容態が改善して、立小野に戻ってくるモノだと信じ、
開催保留にしていたが、もう最後の機会だ。

他の誰にも邪魔されず、山崎一家全員で、実現できた。

2006年5月28日 14時過ぎ

旅支度と呼ばれる、足袋・脚絆などを、身につけていった。

特大サイズの棺に、正巳を横たえると、ギリギリのサイズだった。
けっこう、大柄な人だったのだな、と一同、感心した。

納棺し、立小野を出発した。

近所の、竹中葬祭場に向かう予定であったが、思い出の地を回送できるとの事で、
やまばと幼稚園・春日新築現場・三信工業本社へとまわった。

三信工業で、私と子供チームは、別車両ゆえ、城崎に戻る。
今夜の通夜で、会場に泊まり込みになるため、追加準備だ。

2006年5月28日 16時

竹中の葬祭場に到着すると、すでに準備は進められており、
正巳の棺も、祭壇に乗せられていた。

広い控え室に、ひとまず持ち込み荷物を置いて、着替えて会場に。

150人設定の会場では、急逝を知った正巳の知人縁者が、
焼香に出入りし、何人か私の面識の有る方から、声をかけて頂いた。

ただ、「ありがとうございます」としか言葉が出なかった。

私より、遙かに多くの思い出を持たれている方もいる。

今回は、親族・生家地区の方・直接故人と親密な交友のあった方、
に限った密葬で、進めることにした。

とはいえ、三信工業の社員の方、退職をされた方も来て頂いたようだ。

2006年5月28日 20時

通夜の会場から、控え室大広間で、親族を中心に、食事を行った。

歓談も賑やかになったとき、グラリと大きな地震がきた。

正巳がおこしたのだろうか?

詩音に「おじいちゃん、起きてしまってないか?」と見に行かせたが、
「あー、起きちょらんかった」という結果。

2006年5月29日 00時過ぎ

ようやく就寝ということで、シャワー室で、さっぱりとして、
佐和子と、すこし本日の出来事をミーティングした。

紗代実の生活リズムが崩れてしまい、また終日、佐和子と離され、
ばあちゃんたちに揉まれていたので、少し不安定。

大泣きして寝付かない。

2006年5月29日 00:30

紗代実も落ち着き、全員、寝入った。

私も少し寝て、目が覚めたところで、正巳の様子を見に行った。

別室の控え室に、安置されている正巳の部屋には、
立子・あや子・親戚が、寝入っていた。

起こさぬように、祭壇の前で、合掌。

2006年5月29日 01:30

息を引き取って、24時間になる。

24時間記念に、正巳とふたりだけで、晩酌をした。

生前、赤ワインを一緒に飲む機会が多かった。

今回の入院が無事に済み、春日の入居祝いのときに、
一緒に飲もうとおもっていたワインを開けた。

エシュゾー2001(ブルゴーニュ・ロマネコンティ社)
シリアル: No11520/16424

2つのグラスに注いで、1つを祭壇に供えた。

正巳は、まったくワイン通ではないので、
このワインをウマイというかマズイというか、
ぜひ、聞きたかったのだが。

誰も起きていなかったので、邪魔も入らない二人だけの晩酌だった。

2006年5月29日 07:30

私は、城崎に到着する宅急便の受け取りと、
予約済みの歯医者に行くため、竹中葬祭場を離れた。

ひととおり、要件を済ませ、向かおうとおもうと、
数珠を忘れていたので、城崎に戻る無駄な時間を経て、葬祭場へ。

2006年5月29日 11:40

控え室で、着替えをし、会場に向かう。

多くの参列者は、昨日の通夜会に来て頂いた面々であるが、
再度「最後の見送り、ありがとうございます」と、
私が誰だかを認識できた人は、ご挨拶をした。

今日は、多いのかな、と思っていたが、
そういえば、三信工業の社員は、仕事なので、来ないよな。

2006年5月29日 11:50

喪主佐和子は、あれこれ判断で忙しいようなので、
あまり役に立たないが、親族席に座って、参って下さる方への
ご挨拶をする。

一部の人たちが、席順や序列で、なにやらもめていたが、
私が口出すことでもないし、出したら口だけで済まないだろうし、
おとなしくおとなしく。

親族席から、祭壇の写真を眺めていたが、
昨日のように、無性に涙が流れてくることはなかった。

少し、現実を受け入れられたのかな。

2006年5月29日 13時過ぎ

定刻より少しおしての開始

・お寺さんのお経
・焼香
・弔電披露
・喪主挨拶

と、淡々と過ぎていった。

焼香の際、紗代実を外されそうになったが、
抱きかかえて祭壇の前で、きちんと焼香してもらった。

紗代実は、今回の事は、どのくらい覚えてくれるのかな。

小さな手を合わせていた。

喪主の挨拶の中で、
詩音真凪が、明るい色の服を着ていることについて、
正巳と選んで買った服、特別な時に着た服と、
説明をした。

昨夜、「非常識ではないか」と意見も合ったようだが、
佐和子らしいと、私は再度、賛成だと言った。

閉式の後、山崎一家全員
佐和子・あや子・立子
詩音・真凪・紗代実
雅治

と、そろって、お見送りに立つ。

会場に戻ると、祭壇の棺が低いところにおろされ、
献花・思い出の品を、棺に納めていった。

思い出の品は、
・詩音が描いた、フルーツショップの絵
天国でおじいちゃんが食べられるようにとの事だった。
・真凪が描いた、立小野で夏のプール遊びの絵
真凪にとって、立小野に行けばおじいちゃんが居て
夏は、あそこでプールが出来る事を示した大切な一枚だと思われる。

昨今、棺の釘打ちはしないそうなので、蓋を閉め、
台車に乗せられ、火葬場へ移動する。

まだ、ロビーには、帰らず残っていた参列者が並ぶ中、
静かに運ばれる。

2006年5月29日 14時過ぎ

告別室で、棺の窓を開き、最後のお別れだ。

かなり、高さがあるので、子供は抱きかかえるし、
立子も、すこし持ち上げねば見えない状態だ。

全員で合掌の後、隣室の火葬炉へ。

山崎家、8番炉だった。

台車とレールと火葬炉と、完全なシステムになっていた。

「本当に最後のお別れです」と係の方の言葉に、
嗚咽が漏れ聞こえてくる。

約40時間くらいでしかなったが、
私が、「故山崎正巳」と過ごす時間も、終わりとなった。

死亡後、火葬までの時間は、いつも短いなー、と思う。

通夜があって、葬儀があって、盛りだくさんの様だけど、
40時間ぽっちだった。

約89年間生きた人が、40時間で消滅する。

うーん

善し悪しは、それぞれあるだろうけど。

さて、棺は台車ごとレールに沿って、炉の奥に移動し、
自動ドアの炉壁が、静かに閉まった。

「では、代表の方、スイッチを」と佐和子が歩みでる。
白いボタンを押すと、ボタンが光る。

点火らしき手応えは無かったようだが、
感情的に、キツイらしい。

一同、別館の待合室で、収骨まで待機。

広いロビーもあるが、山崎家の個室もあり、
畳に座る方がいい人達は、こちらで休んだ。

私は、葬儀会場側の駐車場から、
火葬場側に、私と佐和子の車を移動していた。

待合い棟に戻ったら、
男性陣は、ロビーで、思い出話をしながら待っていたが、
わたしは、特に会話を求める人もいないので、
おばさんたちの集う、和室に行く。

子供達もこちらにいるので、そうしただけだが。

TVがあるので、子供達と毎週見ている
「エンタの神様」を見ながら、詩音は大爆笑。

2006年5月29日 16時前

火葬の所要時間は、約90分という事で、聞かされていた。

喪主が、先に呼び出され、炉の解錠と取り出しに立ち会った。

私たちは、収骨室という場所に集められ、待っていた。

入り口の逆の扉が静かに開くと、先ほどの台車と佐和子がいた。

台車の上の棺は、あとかたもなく、白い灰と白骨が乗っていた。

自慢の歯を付けたまま、上顎頭蓋が、眼窩の形状を残したままだった。

昨夜、県立病院で、むくみ解消になればと、揉み続けた足もあった。

大腿骨頭も、膝関節も、かかとも残っていた。
そうだと思った事が的中だったので、うれしかった。

係官から、壺に入れる手順などが、説明され、
参加者が順番に、入れていった。

この係官さんは、遺骨の扱いには、思いがあるようで、
厳しく、収骨作業を進めて頂いた。

せっかくいい形で残った頭蓋骨を、さわろうとして、
「さわらないで下さい」と、怒られる。
※もちろん、いつものメンバーだ。

車いすの立子の状況を察しての配慮で、
のど仏と一番てっぺんの骨を、立子に入れさせてくれた。

係官曰く、天国の生活がある。
残っている部分は、足から手、肩、口、鼻、目と、
すべて入れてあげたい、なので、足ばかりを入れると、
全身が入らなくなり、残念な収骨になってしまう。

うーん、プロフェッショナルとは、すごいモノだと、感心した。

2006年5月29日 17時前

私は、朝城崎に戻り、終日、何も食べて無くて、
佐和子も同じような状態だった。

葬祭場から、立小野に戻るが、私は半田マルショクで、
食材を買って、立小野に戻った。

車が停められないので、裏の墓地側に車を回して、家に入る。

なんと、お寺さんも到着しており、雅治待ちだった。

帰宅のお経を上げてもらい、お寺さんから、生前、本堂建築で、
大変お世話になったと謝辞を頂いた。

その後、宴席となり、家の中いっぱいの人で、飲食をした。

なんだか、群がるかのように、人が増えていた。

親族の解釈によっては、山崎家、ってこんな人数なのかしら?

2006年5月29日 20時

詩音・真凪は、明日の通学・登園に支障が出るため、
一足先に、私と城崎に帰る。

佐和子は、喪主としての責任と、おばあちゃんたちの様子を見届けるとして、
21時まで、居たようだ。

城崎5人になって、今日一日の事を振り返り、
また明日からしばらく続く、式典や事務処理などを、話する。

全員の率直な感想として、
「じいちゃんが死んだって気がしないね」と一致した。

城崎に帰ってくれば、正巳の存在の、あるなしは、感じることは難しい。

これまで、同居していて、いつも居るはずの場所にそれが無い、
なら、空白感もあったのかもしれないが。

2006年5月30日 01:35

48時間経過、また晩酌。

しばらく続けようかな・・・・・?!

以上

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