立子日記

私が、日付を記憶している事、あるいは当日に記録として書き記してあった事。
また、写真などが残っている事を綴った。

もちろん、他のアルバムや、周囲の協力を求めれば、もっと話題はあるだろうが、
ひとまず、私の可能な限りの情報で、立子さんを描く。

思えば、ずっと一本道

2002年11月23日

立子さん80歳の誕生日会を、大分市の大分東洋ホテル(当時)で行った際、

彼女に「80年を振り返っての感想」と、私は問いかけた。

その答え、
「そうなー、お父さん(正巳)と、いっしょになって、あれこれやってきたし、

いろんなこともございましたけど、思えば、ずっと一本道を歩いただけですな」

そう答えた。

私(雅治)が、立子さんと、出会ったのはいつだろうか?

もちろん、佐和子との出会い(1989.7.28)が先ではあるが、
そう時間も空けず、お会いする機会があったと思う。

昔から、立子さんを知るひとは、彼女の象徴として
白いフォルクスワーゲンビートルを挙げる。

※これは立子さんが使用していた現車ではありません。

私にとって、立子さんを象徴する車と言えば

「くうねるあそぶ」「お元気ですか〜」の、日産セフィーロだ

いつだったか、セフィーロが発売された当時(15〜16年前?)、
私のオフィスに、佐和子がセフィーロでやってきた。

「どしたの?」
「おばあちゃんの」
「おばあちゃんが、セフィーロにお乗りになりますか?!」
と、率直な感想の私。

もちろん、事実だった。

私が業者として、やまばと幼稚園に出入りし始め、
園に訪問の際も、ご自身で運転されているところを見たことがあるし、
なんらかの打ち合わせで、私のオフィスにお越し頂いた際も、
さっそうと、車を降り立つ姿に、男気を感じたモノだ。

2000年4月28日

立子さんが、骨折してしまった。

佐和子から電話が入り、「何も言わずに上春日にきて」と。

なんだろう、ともかく城崎から向かった。

到着すると、立子さんは室内で車いすに腰をかけて静かにしていた。

上春日の家に、遊びに行ってた詩音を、抱きかかえ、
蛍光灯のヒモをいじっていた際に、バランスを崩し、転倒。

一見、外傷もなく問題なさそうだったが、左大腿骨頭を骨折していた。

そして、この日から、長期にわたる入院生活が始まった。

いつのまにか、私は、毎日のように、県立病院に通うようになった。

早朝の県立病院周辺は、通勤ラッシュで混み合い、面倒だった。
その見舞い通院が簡単になるように、使っていなかった原付バイクを整備した。

入院が長期化したのは、今回の死因につながった動脈瘤の存在である。

大腿骨頭の骨折は、折れた部分を、金属で固定するだけなので、
大手術ではないが、麻酔などの投薬で、血圧が変動してしまい、
動脈瘤が破裂することを心配された。

つまり、病気というわけではなく、手術に備えての
体調作りが、入院の目的であった。

5月19日に出術は成功し、リハビリに入る。

内科的に、特段悪いところもなく、立子さんの敵は「退屈との戦い」であった。

なにも出来ず寝てるだけなので、次第に足腰も弱って筋力が落ちてしまった。

なんとか、ベッドのままで体力維持をすることができないか、考えた。

廃用性症候群対策「立子シフト」

そう、この入院の時から、「見舞いに、おごちそうを運ぶ」習慣?が始まった。
とんかつ・ミネストローネ、と幾度か、お届けした。

2ヶ月以上にも及んだ長期入院は、私と立子さん、そして山崎家の精神的距離を縮めた。

おもえば、結婚当初、なんだか山崎家にうまくなじめない私は、
じいちゃんのお盆の入院がキッカケで、家族の一員になった気がする。
そういえば、それまで「会長」と呼んでいたのを改めたのはこの時だったと思う。

この老人二人は、ときおり入院騒動で、家族の絆維持に一役買っていた。

2002年11月15日

詩音の七五三

上春日の家で。

寝起きなのか、身支度が整っておりませんが、
しっかりと、詩音を迎えてくれました。

※詩音(3)とツーショット

まだ、このころは、老人ふたりの本拠地が上春日の家であったので、
友人や三信工業の関係者が出入りし、立子さんも人と接する機会も多かった。

2002年11月23日

※80歳の誕生会、ご夫婦で。

立子さん80歳の誕生日会を、大分市の大分東洋ホテル(当時)で行った際、

彼女に「80年を振り返っての感想」と、私は問いかけた。

その答えが、
「そうなー、お父さん(正巳)と、いっしょになって、あれこれやってきたし、

いろんなこともございましたけど、思えば、ずっと一本道を歩いただけですな」

そう答えた。

紆余曲折が無かったわけではないようだし、決して平坦な道でも無かったようだ。

設備業から、一転、教育業務に着手するなど、端から見れば、
いろいろな指摘や意見も合っただろう。

しかし、立子さんにしてみれば、結論として、自分に用意された一本道を、
しっかりと歩き続けてきただけだ、と言いたかったのだろう。

2004年11月13日

※詩音(5)・真凪(3)と、3人で。

詩音・真凪の七五三

宮参りのあと、立小野で待つ立子さんを訪問。

着物には造形の深い立子さんも、かわいい曾孫の姿を喜んでいた。

老人二人の本拠地が、立小野になってから、
立子さんは、引きこもりのような生活になってしまう。

私たちも、立小野となると、なかなか足が遠のいてしまっていた。

2004年11月26日

※着物屋さんとプラスル・マイナンと。

三信工業本社恒例の、Xmasツリー点灯式。

寒いが、おしゃれに着込んで参加してくれた。

詩音・真凪は、プラスル・マイナンに扮装した。

2005年2月18日

じいちゃんが、私にカメラをもって立小野に行って欲しい、という。

なにかと思えば、立子さんが、生け花をしたので、
それを記念に撮影しておいて欲しいということだ。

やれやれ、と思いながら、特段予定もなかったので、
デジカメ・フラッシュ一式をもって、立小野に。

家に入ると、キレイに生けてあった。

※ひさしぶり楽しかったと自慢の作

2006年1月2日

お正月は、家に帰ることもなく、正巳・立子は陽光苑にいた。

そこで、私たちは、なにかごちそうを持って行こうと考え、
ステーキをその場で焼いてあげようと思った。

ちいさなホットプレートを、陽光苑に持ち込んで、そこで焼き上げる算段だ。

しかし、あまり激しくやると、煙がでて施設管理者から怒られかねないので、
持ち出す直前に、50%程度、火を入れておいた。

陽光苑の自室に入ると、二人とも、なにをするでもなく、居た。

「ばあちゃん、ステーキもってきたで」

洗面所のところのコンセントで、用意してきた材料をだし、
仕上げのステーキソースを掛ける。

とてもいいにおいが部屋中にたちこめ、二人とも、反応してきた。

今回は、立子さんメインのイベントであるので、
1セットだけの持ち込みだった。

まあ、1枚をふたりで食べてちょうどいいなという計算ではあったが。

懇意の中島マルショクホリズミ精肉で、「今年一番のフィレ」と
お墨付きの逸品だったが、確かにうまかった。

立子さん、一切れ二切れ食べて、「おいしゅうございますな」とご満悦。

じいちゃんも、数切れ食べていた。
あまりにおいしかったのか、でも、遠慮があるのか、
私に言わずに、詩音ちゃんに「もうちっともっちきちくり」と所望。

結局、じいちゃんが過半数を食べたことになる。

陽光苑にも、怒られることなく、出張ステーキセットは任務完了。

そうか、じいちゃんメインの時は、刺身だから機材は無しだ。
マグロが好きだったな。

じいちゃんが、亡くなる2日前、ステーキが食べたいと言ってきた。
きっと、この味を求めての事だろう。

「そんな、急に今日言われて今日はできんわ」と取り組まなかった。
事実、前述のステーキは、温度管理とコショウ振り後の保存など、
いくつかの調理手順で、あの味になる。
取り繕って持って行き、「なんだか違う」と思われるのは、
せっかく、「あの味」を求められているのに、ダメだと思ったからだ。

次、面会するとき、直接要望を聞いて、用意しようと思っていた。

しかし、じいちゃんにステーキを食べさせてあげる機会は、無くなってしまった。

2006年5月28日 01:35

長年連れ添った、夫が先立とうとしていた。

心肺も停止し、医者から臨終を告げられた。

そばで、様子をみていた、立子さんが、立ち上がって、
私に聞いた
「じいちゃん死んだ?」
「うん、たったいま」

立子さんは、そのままベッドへ行き、
正巳の枕元に覆い被さった。

号泣した。
「このバカたれ、私をひとりにしてから」

見合い結婚で、大分の片田舎につれてこられて、
苦楽を共にし、時には競い合い、時には慰め合い。

夫婦であり、会社の同僚であり、ライバルであり、友人であった。

晩年は、互いに身体のことを気遣い合って、
入院先の病院から、外出許可で、相手を見舞う、なんて、
破天荒なラブストーリーを見せてくれた、正巳・立子夫妻。

夫婦の一人が、永遠の存在になってしまった。

※正巳の通夜の席の、立子さん

夫の死というモノを、どう感じていたのかは、いまだ疑問だ。

自身の手で、正巳の葬儀を執り行い、火葬収骨を経て、

法要も参加してきたとしても、時折、私たちに、彼女は言った。

「最近、お父さん(正巳)は、顔を見せないが、どうしよんのね?」

私たちは、その様子に、悲しく愛おしく、純粋な彼女に、困惑した。

事実で接すべきか、彼女の世界観を尊重すべきか。

「おばあちゃん、じいちゃんは死んだんで」

「じいちゃんは、つぎの所に逝ってしまった」

「そうなー、きっと仕事が忙しいんだわ」

「あら、私らも最近、会わないのよ」

・・・・・

答え方は、幾通りもあるはずだ。

じいちゃんが死んだことを理解させようと思ったこともあったが、
ムリに死の現実を突きつけて、悲しみをあおってどうなるのか?
そんなことも、佐和子と話をした。

以後、その時の様子で、答え方を考えて対処した。

2006年6月24日

SN340057

※壁際のベンチにならんで

前日、23日は、じいちゃんの四七日で、
立子さんも、参る予定だったが、雨のため来られなかった。

なので、曾孫さんたちをつれて、陽光苑へ表敬訪問。

いつも訪問は、おやつ時なので、食堂に居ることがおおい。

2006年8月13日

今日、長い間かかって、建築を進めてきた上春日の家に
立子さんが帰ってきた。

「こうあるべきだ」、と机上の空論で、部屋の準備と
安全対策を考えてきた結果、果たして立子さんは、
お部屋を気に入ってくれるかな。

心配していたが、特に気に入らない様子はなかった。

でも細かな点で、身体の大きさに合わない部分がある。

設計士さんは、住む人の身体を実測したりはしないのかな?

ともかく、家が広いので、1つの部屋を変わるだけでも
相応の歩数を必要とする。

中休みできる場所が必要なようだ。

食事は気に入ってもらったようだ。
しっかりした味がいいのかな、付け醤油を使っていた。

分量は、真凪程度。

なかなか寝付けなかったみたいで。

自室から起き出して、うるさくてもいいから
皆の居るところに居たいと。

「もう家に帰るから、車を呼んで」と、逼迫して言ってた。
「おばあちゃん、ここは前の上春日のうちを立て替えたから
見覚えはないだろうけど、みんなで暮らす、おばあちゃんの
家なんで」と言うと、「ああ、そう」と緊張をゆるめた。

今日は、なんとか終わろうとしているけど。

医療が必要な状況にならないようにしなくては。

2006年8月14日

立子さん、上春日滞在2日目。

あさご飯
お握り・みそ汁、目玉焼き

お昼ご飯
かど屋の、お好み・やきそば

晩ご飯
エビチリ・酢豚・卵スープ・関アジ

入浴や用便の際、おしりのたるみに、排便がついてしまうため
拭き取れずに、体臭にかわってしまいそう。

よく拭いてあげねば。

食べるときに、むせ返ることが多かった。

夜、なかなか寝付けず、
お盆の準備をきにしたり、
家の認識が出来てなかったり、

寝付き前の「ふご!ふご!」が落ち着くまでそばにいて、
いびきに変わって、寝付きを確認した。

まだ、慣れないよねー。

2006年8月15日

今日は、来客があった。

午前中、私が出かけている間に、前の公園に、
おんなども、散歩に出かけていた。

暑い中で、みな汗びっしょり。

立子さんも、汗をかくようだ。

陽光苑の生活では、着替えもシャワーも制限され
きっと、不快な毎日だったろうと、懸念する。

午後、立子さんの友人が、来宅し、
話がはずんでいたようだ。

今日は、例の異臭が強い。

佐和子と検証の結果、口臭だと特定し、
私は、イソジン歯磨きを実施。

見事、においは激減した。

おしりもしかり、
お口もしかり、
健常者だって、しっかり手当しなけりゃ、臭いますがな。

昼の来客でつかれたのか、21時前に寝てしまった。

2006年8月16日

今日は、朝食作りからお付き合いが始まった。

朝食は、ご飯・ミネストローネ・プレーンオムレツだ。

明け方まで作業していたので、佐和子にバトンタッチで、
寝てしまった私。

午前中、弁護士事務所に行く用事があって、出かけたら、
「女ども、芸館に行く」とのこと。

お昼は、岩見のおばちゃんに、カレー披露

午後は、佐和子だけがでかけて、残った全員が、
それぞれに過ごした。

立子さんは、コミュ室で、ゴロゴロしていた。

今日は、真凪さんの誕生日、
夕飯は、ハンバーグ

これも、たくさん食べてくれた。

子供たちがお風呂に入っているが、
バースデーパーティーまで、時間が空いたので
眠らないように、立子さんの自慢の帯を出してきて見せた。
「ああ、これいい柄だ」
「絶対、誰にもやらん」
と、言ってた。

着物も、はやく、持って帰ってきてあげねば。

「着物(帯)は、絶対誰にもやらん、あんた守ってな」
立子さんは、私にそういった。
「大丈夫、絶対に守る」と、私も約束をした。

立子さんを元気づけるために、口にした約束であったが、
彼女は、本気でそう思っていたのかもしれない。

ばあちゃん、ごめんね、約束は果たせそうにないよ。

法律上、私の管理下から離れざるを得ないし、
きっと、無情に散乱してしまうと思う。

ほんとうに本当に、ごめんね。

真凪のお祝いケーキをおいしそうに食べて、
「よい子のビール」が気に入ったみたい。
ノンアルコールなのに
「あー、今日は、酔うたわ」、ご満悦。

歯磨きも、定例になってきた。

水でうがい
電動歯ブラシ+歯磨き粉で掃除してあげる
水でうがい
イソジンうがい
水でうがい

一昨日くらいから、よく笑い声をあげて笑っている。

ずっと昔、立子さんが理事長先生だったころ、
私が業者として訪問し、くだらない話に、
お互い笑っていたころから、
つい最近まで、立子さんの笑い声なんて、
消滅していたと思う。

笑い声を上げることが、良いことなら、
こんなに嬉しいことはない。

私も、なんだが、6人分の調理に
慣れてきそうだ。

詩音ワゴンが、小さいな。

2006年8月17日

今日は、私が、カレー藤田師匠のところにいくので、
午後は、出かけた。

おんなどもは、なんと、無謀にもトキハにお買いものに出ていた。

店内を散策し、カフェでお茶してきたらしい。

そういえば、立子さん、トキハショッピングは、
何年ぶりだろう????

じいちゃんが、身体を気遣って「外出禁止令?」状態だったし
お世話をお願いしている岩根さんは、
疲労させるようなことを嫌うし。

夜、買い物した洋服などをみせてもらったら
自慢げに「いいでしょ、これ」と、
ハデっちいシャツを指さした。

不思議と、そういう柄を着こなすからすごいね。

楽しかったみたいで、買い物三昧だったそうな。

そんなこんなで、時間がさがった夕飯後、
みんなで、花火をした。

台風のさなかであるが、なんとか風の少ない、
場所を見つけて、手持ち花火を、みんなで楽しんだ。

※私はここに「じいちゃんもいる夏」を思い描いていたのに。

立子さんにも、花火を手渡すと、楽しんでいたし、
なんと、振り回したりする暴挙にでた。

花火後、入浴して、就寝。

ところが、起きてきて、混乱状態。

お盆の段取りがきになると、しきりに心配していた。

私が、「そのようにしましょう」と、
気がかりを聞いてあげて、落ち着いてくれた。

「なら、寝るわ」と、0時過ぎ、寝入った。

2006年8月18日

今日は、立子さんは、
上春日を離れて、陽光苑に移動する。

また、しばらくは、陽光苑ですごしてもらうことになる。

あさから、税理士さんがきたりで、自室を占領されたので
ゆっくり朝寝ができなかった。

お昼は、くるくる寿司初体験で、しっかり食べていた。

陽光苑に、送り届けるツアーに、私は参加できなかったが、
上春日に帰りたいという感じがでていたらしい。

上春日が、自宅だという事を認識してもらえたみたいだ。
だが、それゆえ、陽光苑にいる意味を納得してもらうには
あまりに矛盾が多いと感じる。

今夜、立子さん、泣いてないかな?

1週間だったけど、「居るはずの人」になった立子さん。

居ないって、さびしいね。

もちろん、居ないから、時間の配分に余裕ができて、
自分の仕事を、片付けた雅治・佐和子であるが….。

すこし、時間をかけて、
立子さんがいる生活リズムを、見つけていかねば。

そのためには、陽光苑は、ちと遠いな。

2006年9月28日

母娘4人は、朝から、幼稚園の運動会リハーサルに出かけた。

立子さんは、前日から、月例上春日お泊まりに帰ってきていたが、
一夜明けて、この日は、陽光苑に行く日だ。

午前中、じいちゃんの月命日の法要があった。

その後、私と立子さんは、なにをするでもなく、時間を過ごした。

お盆の長期滞在の時のように、ずっと横に座って、
話をすることも大切なのかもしれないけど、
求めれば顔が見える距離の中で、
それぞれの時間の中で、1つ屋根の下にいることでも、
いいのではないかと、思うようになってきた。

お昼近くになったので、恒例のNo2カレーを準備する。

miniサラダと、ポタージュスープを付けた。
立子さんは、ぱくぱくと、カレーたべてしまった。

「きょうは、幼稚園は、運動会のリハーサルで、行くかい?」

そういうと、運動会みたいらしいので13時過ぎ園着で、行動開始。

※運動会リハーサル見学の立子さん

ちょいと観覧して、紗代実を乗せて、陽光苑へ送り届ける。

別れ際は、さっとするようにしているので、
食堂に座らせて、職員の方に任せた。

次回は、「10月27日だね」とバイバイ。

2006年10月14日

陽光苑で、入所者の大運動会があるらしい

老人の入所施設なので、私は「いったい何?」と思った。

しかし、立子さんから、「出場するから来て」と
ご招待を頂いていたので、一家で訪問する。

施設1Fの大ホール、机など設備を取り払い、広場になっていた

そこに紅白に分かれた選手団?が、対面していた。

立子さんは白組だ。

「かりもの競争」で、詩音と共に参加し、

いつにない俊敏な走りを見せた。

見ている私も、老人だけの運動会をバカにしていた感があったが、
いつの間にか、引き込まれて、応援していた。

いやあ、すごいですな、まったく。

閉会式後、運動の疲れも考慮し、さらりと陽光苑を後にした。

2006年10月16日

陽光苑で、メークの日というのがある。

女性が、お化粧をばっちりする日で、
メークさんがきて、やってくれる。

この日、佐和子がいって、証拠写真を撮ってきた。

※ははー、まだまだ行けますかな

2006年10月27日

今日は、月例上春日お泊まりの日だ。

午前中、ケアバンクさんが、
お風呂の手すりと、便座を付けに来てくれた。

午後、立子さんが帰ってきた。

佐和子は、焼き芋・歯医者、めがね事件やあれこれで、家に居なかったので、
なんだか、統制が取れず、立子さんも、マットにお漏らししたり。

夕方から、着物屋さんがきて、大騒ぎの中、
思い出話を、楽しんだようだ。

夕ご飯は、ご希望の、牛フィレステーキ。

1枚、120gを、全部食べてしまった。

2006年10月28日

立子さんが、上春日にいる風景、
子供たちも、私たちも、自然になってきた。

今日は、陽光苑へ送るのに、トラックでいった。

高い昇降口をなんとかあがって、ベンチシートに座り込む。

6人満席で、陽光苑へ、向かう。

陽光苑到着すると、施設玄関で車を降りるが、
意外と降車のほうが手間取る。

そこで、私が抱きかかえ、降ろしたら
「ひゃ!」と、びっくりしたみたい。

36キロって、こんな感じですかね。

2006年11月4日

※おんなども全員

詩音・真凪の七五三

陽光苑に、着物報告へ。

今回も、着物のデキと、曾孫さんたちの笑顔に、満足の様子でした。

陽光苑では、他のおばあちゃんたちから、
大歓声をあびて、真凪は、わざわざ人が多い方へ行ったりする。

他所への訪問もあるので、きりつけて、バイバイ。

2006年11月9日

七五三の時に、陽光苑に訪問したが、
の写真を、立子さんに届けた。

幼稚園に行く用事があったので、ついでといってはなんだが、
私一人で、訪問だ。

施設2Fにあがると、いつものように、食堂にいた。

「ばあちゃん、写真もってきたで」
「なんの?」
「この前の七五三の時の」

「はい」
「あー、ようございますな」

食堂で渡してしまうと、紛失することもあろうから。

「ばあちゃん、これお部屋に置いてくるね」

自室に置いてきた。

「ふんなら、ばあちゃん、また来るで」
「ああ、もう帰るんかい」
「いよいよ、誕生日も近いな」
「あー、そうですな」
「ははは、じゃね」

その場で、バイバイ

同じ写真を、立小野のじいちゃんのお墓にも持って行った。

立子さんのことを気にしていたじいちゃん。

お空からみえてるだろうけど、曾孫3人との写真だよ。

2006年11月21日

この日は、立子さんの84回目の誕生日だ。

来週、月例上春日お泊まりで帰ってくるので、
なんどもケーキするのもおかしいかな、と思っていたが、
まあ、顔を見に行くのもいいし、やはり当日に
お祝いの言葉だけでも、お届けしようと、
佐和子と予定を整えた。

午前中、詩音・真凪は、学校と幼稚園に出たので、
みな帰ってきてから、陽光苑に、行く予定としていた。

佐和子・紗代実は、連れだって出かけたので、
私は、鍼マッサージに向かった。

もう10年くらい通っているなじみの場所で、
マッサージを受けながら、施術士さんが、
博多駅でホームに落ちかけて、騒動になった話を聞き
大笑いしたり、カレー屋を始めたことなどネタにして
1時間ほど、過ごした。

のち、しばらく買い物を続けて、14時に詩音を迎え、
誕生日ケーキ代わりのコーヒーゼリーを求めに、
城崎町のケーキショップへ向かう。

ところが、季節商品で欠品のため、カッププリンにした。

立子さんは、コーヒーがすきなので、
佐和子が、コーヒーゼリーを計画したが、残念。

15時過ぎ、私たち5人が陽光苑にそろう。

立子さんは、いすに腰掛けて、
和室ではしゃぐ真凪・紗代実を見ていた。

全員で、ハッピーバースデーを唱和し、
カッププリンを、食べ始めた。

美味しいのか、どうなのか、なんだか微妙な表情だが、
「ああ、おいしいで」と、首を縦に振る。

翌週、11月27日は、月例の上春日お泊まりの日だ。

恒例の雅治君の手料理に、肉料理を所望した。

私は
「ばあちゃん、今度はスキヤキにするけんな」
「ああ、それもいいですな」

16時過ぎ、私たちは、陽光苑を離れた。

いつも、1Fまで送ってくれるのだが、
ここ数日の微熱を考え、2Fエレベーター口で、
お別れのバイバイ。

2006年11月21日 20:00

佐和子の携帯に、あや子さんから、連絡が入る。
なにやら「立子さんが、病院に搬送された」という話である。
心肺停止やら何かをのどに詰まらせたやら、
単語は出てくるが、状況判断できる情報が少ない。

つい4時間くらい前に、いっしょにプリンを食べて
別れたばかりで、私たちは急変とは感じなかった。

夕食後のおやつが恒例化していることをきていたので、
なにか食べててむせかえった、程度と思っていた。

しかし、陽光苑ではなく、天心堂(病院)のほうからの
連絡だったので、すこし心配もした。

子供たちも寝る時間が迫っていたので、ひとまず、
佐和子だけが、病院に向かった。

調理場に行くと、洗い残しの食器があったりで、
「ああ、あらいものしなきゃ」
「詩音ちゃんたち、寝る準備しなさい」
「紗代実ちゃん、ちょっと待っててね」

詩音・真凪も、おやすみのチュウして、寝室に入った。

私は、紗代実と、調理場で洗い物などをしていた。

2006年11月21日 20:47

私の携帯に、佐和子から電話が入った。

「おばあちゃん、どうよ」
「あのね、おばあちゃん、死んだよ」
「・・??・・ん?・・・心臓停止はウソじゃなかった?」
「検死が必要かもしれないから時間かかるかも」
「そうなったらそれでいいから、子供たちも一緒に行くわ」

ともかく、子供たちをつれて、病院へ向かうことにした。

せっかく、寝付いた、詩音・真凪だが、起こす。
「おきて、たいへんなことになったのよ、
立子おばあちゃんが、死んだんだって」
真凪は、寝起きが悪いから、よく理解できないみたいだが
詩音は、混乱して、号泣する。
「なんでよ、さっきまで元気だったじゃない」
「ともかく、おばあちゃんに会いに行って確かめよう」

おふろしてない紗代実を、蒸しタオルで身体拭いて、
あわてて着替えて、病院へ向かった。

天心堂の夜間口から入り、受付で名前を告げると、
救急処置室に案内された。

佐和子が居た、そして、いつもの様に眠っている立子さんが
処置台の上に横たわっていた。

「おばあちゃん、どうしたんかい」
身体に触れたら、いつもの様に暖かい。
ただ、手に触れても、握り替えしてはくれなかった。

処置室に、大分東署の警察官が来ていた。

陽光苑(医者がいないところ)での死亡ということで、
変死の扱い(司法解剖)になる可能性があった。

喫食中のことなので、搬送時、立子さんが手に持っていたパンも、
薬物混入の可能性から、証拠として保全されていた。

担当医が、警察官に状況説明をしているのを、聞いていた。

結論として、死因は、胸部大動脈瘤破裂である。

よって、変死の疑いも無くなり、検死も不要となった。

遺体処理をお願いし処置室をでると、親族・知人が数名、集まっていた。

しばらくして、処置が終わり、霊安室に移された。
※天心堂って、えらい大きいのね、とてもながい距離歩いた気がする。

私は、子供たちをつれて、一足先に上春日に帰った。

立子さんが、自室に帰宅する準備だ。

上春日に戻ると、三信工業の後藤常務が来ていた。

準備が出来るまで、お待ち頂き、あとからやってくる車の入れる場所を、
案内して頂くようお願いした。

2006年11月21日 23:50

立子さんが、なにも言わずに帰ってきた。

いつも使っていた自分のベッドに横になった。

一見、いつものように寝ているだけにみえる。
寝息が聞こえないだけだ。

病院に来てくれた方々も、いっしょにこちらに見えた。

佐和子は、葬儀屋と打ち合わせをしている。

私は遺影に使う写真を、ライブラリから探す。

<2004年6月5日 山崎正巳米寿の祝いの席>
※大好きな雅治君とツーショットで、笑顔です

子供たちも、いい加減に疲れて寝てしまう。

お参りの人も、順次、帰って行った。

母を失った一人娘さんも、帰ってしまった。

佐和子は、通夜宿泊になるので、衣類などの準備に
あれこれ家中、駆け回っている。

私は、ときおり、線香をあげに、立子さんの前に立つ。

「ばあちゃん、どういうことな?」
「なにがあったんかい?」
「じいちゃんが、呼んだんな?」
「来週のスキヤキ食べんでいんかい?」

あまりに急な話で、疑問だらけだった。

立子さんが、この部屋で過ごすときは、
時折、こうして寝顔を確認に来ていた。

寝息がしないだけで、いつも通りの立子さんだ。
※の立子(死顔写真なので閲覧には心構えをしてから見て)

「おなか空いたら、起きたらいいわ」

そういって、私は、部屋を出た。

の立子

2006年11月22日 14:00

子供たちは、通常通り、学校・幼稚園にいったので、
私は、お昼過ぎに出発してお迎えに行き、戻ってきた。

ちょうど、葬儀屋さんと霊柩車が到着した。

立子さん、上春日に来たときは、遅くまで寝てることもあって、
おなかが空いたら起きてきていた。

でも、やっぱり、今日は、起きてくることはなかった。

葬儀屋さんの指導をもらい、旅支度をして、棺に納める。

どうしても、首が右を向くからと、タオルで支える。

お参りの人の出入りがちらちらあるが、私はトラックに通夜宿泊の荷物を運ぶ。

15時過ぎに、出棺だ。

立子さんが、いまここを出て行くと、もう二度と戻らない。

霊柩車を見送り、私と子供たちはトラックで斎場に向かう。

家の戸締まりやら、火の始末やら、洗い物やら、
生もの廃棄などなど、整理してたら、しばらく時間がかかった。

立子さんの部屋に行った。

主を失った部屋をみて、

「ここの住み心地、どうだったのかな?」
「自分の部屋だと思ってもらえたかな?」
「唐詩選も掛け替えないままだったね。」
「つっぱりポールも、使わないままだったね」
「超音波歯ブラシも新品のままだ」
「佐和子が探しまくった洋服も未使用」
「車も考えねばって思ってたし」
「床を光触媒にする計画も」
「ああ、ハヤシライスもあったな」

いろんな事が、すべて「終了」で、
なんだか、昨日、泣かなかった分、急に涙がでて、
トラックで子供たちが待っているのも気になっていたが、
ひとり、立子さんの部屋で泣き伏せてしまった私。

2006年11月22日 18:00

通夜の儀、今回は、会場全面にした。

じいちゃんの時に様に、密葬にしないので、
多めの来場者を見込んでのことだ。

現役から離れていたのに、多くの方が見えて下さった。

そして、今回も、白髪二人組が、自己満足に張り切っている。

式も終わり、宴席で、ビールサーバーを準備したが、
飲酒運転に対する社会的観点から、飲む人はほとんどいなかった。

じゃあ、前回のじいちゃんの時は、なんだったんだろうね?
参加メンバー、ほとんど一緒なんだけど。

あまり食べるものもないが、詩音ブラウンマイスターの
生ビールを頂きながら、飲食をしていた。

ばあさん側のテーブルにいた紗代実がいつのまにか、
私のそばに立ちつくしていた。

絞り出すような涙で、破裂寸前だった。

もみくちゃにされて、ママの姿も見えず、
おねえちゃんたちも、そばに居ないし。

やっと見つけたパパは、誰かとお話中だった。

どうしようもなくて、立ちつくしてしまったみたい。

ごめんね紗代実ちゃん、守ってあげられなくて。

※だから、子供だけで行かせるのイヤなんだけど。

ほどなく、閉宴し、遠方の岩見のおばちゃん以外、
全員が、帰ってしまった。

後かたづけをして、こどもたちは、お風呂にいった。

2006年11月22日 22:00

SN340121

※鹿児島産黒毛和牛 特選フィレステーキ
和風ソース「ジャポネーズ」

通夜の棺にお供えをしよう。

じいちゃんの時は、赤ワインを供えた。

やはり、立子さんは、ステーキでしょう。

立子専用、出張ステーキセット(ホットプレート)を
持ち込んでいたので、付け合わせの野菜をバターソテーして、
ステーキを、焼いた。

岩見のおばちゃんから、
「ほんと、あんた、よーやるなー」
と、お褒め?を頂く。

宿泊室に戻ると、お子様たちは
なにやら、ゲームやら、あれこれとしていたが
パパ・ママは、ダウンで、早々に寝てしまった。

錯乱状態の紗代実ちゃんは、寝付けず、ずっと泣き続けていた。

2006年11月23日 10:00

そろそろ、皆、起きて行動しだしたので、
片づけも併せて、昨夜のステーキを温め直し、
爪楊枝サイズで、一口づつ、みなで頂く。

あー、やっぱりおいしいわねー。

岩見のおばちゃんも、喜んでいた。

ビールサーバーなどの不要物を、片づけながら、
着替えたりして、葬儀の時間を待った。

2006年11月23日 13:00

多くの方に参列頂いて、葬儀が進んだ。

弔辞があったが、こういうときは、
やはりスムーズな方がかっこいいよな、と思う。

参列者お見送りのあと、お別れで、棺を降ろした。

立子さんのお気に入りだった、二宮圭一さんにも、
残って頂いて、献花してもらった。
二宮先生も、涙をうかべながら
「ほんとうに、残念やな」と言葉をかけて頂いた。

子供たちは、絵などを入れた。
詩音:レストランの絵
真凪:折り紙など
紗代実:アルファベットチョコ

また、私たち一家5人の似顔絵も入れた。

私は、このさきずっとカレーを食べられるように、
カレーワゴンの木製スプーン
じいちゃんの分も、天国で渡してもらおうと託けた。

いっぱいのお花に囲まれて、棺のふたが閉まる。

台車に乗せられ、火葬場へ。

告別室で、全員が1本づつ線香を上げて、棺のトビラから
最後のお別れをする。

あまり表情をくずさなかった真凪も、最後のお別れで号泣した。

炉の扉の向こうへ入り、施錠され、送った。

2006年11月23日 14:30

子供たちを、火葬控え室に座らせて、私は宿泊室の片づけに戻る。

ひとまず、火葬控え室に、飲料や軽食を運ぶのに、何回か、両室を往復する。
なんせ、広大な施設の端と端なもんで、おっさんには重労働。

プラカップやお茶など、控え室の受け入れ態勢を整えて、
さて、搬出荷物に取りかかるかなと、いうところで、
「雅治君、はやく部屋の片づけして」と、事情を知らずに
指摘をうけてしまう。

作業には順序があることを説明をしても、理解できない方なので、
口論はさけたが。
その直後、佐和子から「早く部屋を空にして」と電話あり。

ああ、やはり、この二人は、親子なのね。

大雨のなか、トラックを玄関に回して、荷物を詰め込む。

一通り、片づけを終えて、控え室で、待機。

宮河内のふたりに、Xマスプレゼントの確認などしながら、時間をまった。

昨夜の事があるのか、紗代実は、呼ばれてもあちらに行かない。
本当になにがあったのか、気がかりだ。

2006年11月23日 16:00

火葬終了のアナウンスがあり、収骨室へ。

お骨は、やはり少ない印象をもった。

順次、骨壺に収めていった。

最後を務めようと思って、最後尾にならんだが、
伊東家の若いしが、居たのでお任せした。

私が、出しゃばる必要もないし、
伊東家も、親族として自分の手で送ってあげたいだろうし。

最後に、係の方の仕上げで、収骨は終わった。

2006年11月23日 17:00

場所を変え、宴席を持った。

じいちゃんの時は立小野だったが、今回は受け入れ態勢も
難しいので、宴会場を借りての開催だ。

昨夜から、ずっと「一茶」という仕出し屋の食事だ。

最後のここもそうなので、そろそろ飽きてきたな。
次回?は、変えていきたいモノだ。

大きなテーブル上、円台テーブルがあり、料理がのっている。

皿を動かすから、円周からはみ出して置いてしまい、
周囲の飲料を倒す事、続発。

また、ソースポットを、使用後手元に置き、円台に戻さないので、
他の人が使えなくなってしまう。

そういう人たちの集まりだったのかな。

2006年11月23日 20:30

上春日に帰り着いた。

ちょうど、48時間前、私は佐和子から訃報を聞いた。

この48時間の間に、立子さんの事が、凝縮されて終わった。

調理場に行くと、洗い残しの食器があったりで、
「ああ、あらいものしなきゃ」
「詩音ちゃんたち、寝る準備しなさい」
「紗代実ちゃん、ちょっと待っててね」

映画のフィルム編集のように、この48時間分切って、
前後つなげたら、なにも気が付かないかもしれない。

この新居で、お正月をフルキャストで迎えることは出来なくなった。

だけど、それはそれで、アリなのかもしれない。

言い出せば、立子さんのパスポート作る計画とか、
全員でディズニーリゾートに行くとか。

たくさんたくさん、やれなかったことがあるけども、
それはそれで、私たちには、必要なかったことかもしれない。

見方を変えるなら、死の直前に、誕生会を開いてあげられたことは、
出来なかった事を悔やむ以上に、なによりすばらしいの事だと思う。

しなくていいことは成就せず、必要なことを成してきた。

今後も、それでいいのだろうと、教えられた気がする。

立子さんの言葉を借りるなら

私たちの道は「ずっと一本道」だということなのでしょう。

おばあちゃん、ありがとう。

おじいちゃん、ありがとう。

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1件のコメント

  1. 誰もいなかったのでこっそり、泣きました
    全然覚えていなかったから、大切な人や覚えて居なくても
    知っている人が居なくなるととても悲しかった
    うたねんやまなぎんはもっと前に悲しみにあっている
    言葉がでない

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