☆2005年 72点
2005年頭に公言したキーワードは2つ
・BBブランチ
・成すがままに在るがままに
・BBブランチ
結局、なにも実現しませんでした。
原因は「開校に向けた情熱に欠けていた」事だと感じています。
2005年は、当時手がけていた企業システムの完成を目指し、
その終了と同時に、BBBを開校し身分を移行するという計画であったと
当時の自分の言動記録から推測されます。
計画が計画通り進まなかったのか、
計画そのものが甘かったのか、
特別に検証はしません。
1つ、いまとなっての結論として、
「BBブランチ for システムスペシャリスト」の必要性は認めるが
自分が学校長として指揮を執るには、至らない状況であるということ。
既存のカリキュラムは、陳腐化し、
それを時代に合わせて刷新するだけの技術も知識も、
自分は追い付けていない。
システム屋は「技術でなく、人生観とセンスである」という校風があるとして
学校長自身が、システム的人生観に不備があるとすれば、
技術も作品も、指揮指導にも、不満足な結果を残し、
授業料を頂くだけの完成度は望めず、断念しました。
こっそり、
BBブランチ for クッキング は、進行中だが
衣食住の根幹に関わる部分の修練というのは、
「教えたり」「教わったり」するモノであるべきか?
自分自身でも、答えを見いだせず、
2006年も、クッキングカリキュラムは、
会員制のまま模索を続けることになりそうである。
・成すがままに在るがままに
3女を、無事に手にして、日々、満面の笑みを投げかけてくれている。
「子供の笑顔を見てると、明日も仕事がんばる気になる」
というフレーズを耳にすることがあるが
「子供がかわいい」のと「仕事をがんばる」かは、別でないか?
少なくとも、私は「連動して無い」と、思う。
だって、パパは無職でも「うちの子はかわいい」のは変わらず。
また、一部から参加要請継続中の、組織運営上の問題につきましては、
大きな決意を持って言動してみたけども、結果8月をもって離れました。
気がかりも多いが、私とその国の文化が、あまりに違いすぎた。
「カラスは黒い」と思っていた私だが、
その国には「カラスは居ない」らしく、会話にならず、
「カラスの善悪」の問題点を整理するどころか、、
「カラス」についての意見交換すら成り立たない状態だ。
残念ながら、対局から接していく事になりそうだ。
2005年、振り返ってみれば、
直面する問題は、解決してきた。
予想されるトラブルは回避してきた。
得られる利益は確保してきた。
しかし、「やりたいことをやった」
という手応え感に、欠けていたと思う。
結果の72点は、成果評点でなく、自己満足点部分を考慮すると
昨年より低く提示された、当然な評点である。
38歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・
総合評価72点
1年のメール:10,793本
送信と受信を含め
メーリング・ニュース・受託管理者連絡は含まず
携帯電話からの発信分は含まず
☆さん姉妹について
2005年4月18日 三女 紗代実(さよみ)が誕生した。
長女 詩音(うたね) 6歳
次女 真凪(まなぎ) 4歳
に続く、第三女だ。
長女の時と違い、
次女の時と違い、
私にしてみたら、詩音の時のような、
初めての経験ばかりの事ではないし、
落ち着いて、三女との出会いに取り組めたと思う。
そして、
詩音も真凪も、ともかく、かわいがるのである。
それと同時に、三女にかかりきりになりそうな
ママ・パパを取り戻そうと、あれこれ作戦を発揮するのであった。
次女真凪も、姉にならってお世話を試みるモノの
扱いの危なさから、せっかくの意欲を、
大人から制されてしまうこともあり、
まだまだ難しいようである。
そういえば、このような行動を、どうとらえるのか思案中である。
親の感情によって善悪判断を変えていいモノか?
真凪は、紗代実をあやす事も、生活の中のお手伝いも、
悪気があってやっているわけでもなく、
自分の体験から、善悪を判断し、行っていることがある。
例えば、
私のデスクに「鼻づまり」の点鼻薬が置いてある。
以前、真凪に「取ってこい」と言って、持ってきた。
そのとき、うまくできたことを褒め、私も喜んだ。
彼女は、それを記憶していた。
ある日、私が鼻をぐずらせると、真凪は点鼻薬を持ってきた。
まったく過去の出来事を意識しないまま、医療薬を手に持ち立つ真凪に
私は「なにをしてるの、お薬はさわちゃいけない!!」と叱りつけた。
真凪は、パパの鼻が苦しそうで、以前の記憶から、薬を取りに行ったのだ。
「ありがとう、苦しかったけど、真凪のおかげで助かった」
と言う言葉を期待したかもしれない。
しかし、怒鳴られ、人間不信の表情を浮かべて、立ちつくした。
大人の方に、明らかに矛盾がある、あるいは説明不足だろう。
あるとき、食事中、携帯ゲームを操作する長女に、
「ご飯の時は、他の事はしないの!」と叱る。
子供たちに言わせるなら
「お電話は?、新聞は?、パソコンは?、大人はいいの?」
大人の大いなる矛盾だ。
確かに、私は食事の途中でも、定期的に、パソコンの前に立ち
新着メールの確認を行う。
それが進行中のプロジェクトで、重要な事もあるが、
自分が好きで頼んだ、ワインのオークション通知だったら
子供たちに「仕事だからしかたがない」とは言えないだろう。
そういえば「仕事だから」と、いいわけがどこまで通用するのだろうか?
パパの夜のお出かけを、家族は「仕事だから」という一言で
本当に容認できるのだろうか?
最近、私は夜のお出かけの見送りに出てくれる子供たちに
「どこへ?」と聞かれて「仕事だから」とは言わなくなった。
※私は勤め人でないので、夜の宴席は会社から直行ではなく
自宅から、時間になって「行ってくるね」と出て行くのである。
「夜の見送り」という節に違和感を持ったので解説。
正々堂々と
「お友達と楽しいお話をしながらお酒を飲むのよ」と言う。
※威張る話でもないか…….
2006年も、事実に基づき、誠実に子供たちと接していきたいと思っている。
三女紗代実は、大きな事件もなく、元気そのもの。
生まれたときは、産院内で大きめグループであったが
現在、活発な活動も効果してか、体重は下限付近を維持している。
定期検診や縁の浅い知人などが初見時に「小さいね」などというが、
「ほっとけ、ウチの子の勝手だ」と、....言わない。
物騒な昨今、街中や店舗内で、「かわいい」と
手を出してくる見知らぬ人々がとても気になる。
そんな手を振り払うと、過剰防衛になるのかしら?
そのかわいい三女さんも、ようやく飲食が始まって、
パパ料理の深みに、転落させられそうな状況である。
最近、特殊な食材の入手ルートを開拓したため、
上のお姉ちゃん2人とは、違った離乳食で行ってみようと思っている。
困った時にはママヘルプが必要な現時点、男親としては何も役立たず、
もうしばらく「パパとして手応え感」も少ないが、まあ、いいでしょう。
次女真凪は、今年度(2005/4)より、幼稚園に園児として通園を始め、
運動会や発表会、マラソン大会などを、楽しんでいる。
個性の強い彼女は、幼稚園の友人たちも個性派揃いのようで
いつもそのメンバーで行動することが多いようだ。
私はこのグループを「先生の話を聞いてない4人」と名付けた。
※事実だ。
入園前から、ママに付属して職員室に通園していた真凪が
どんな社会生活になるのかな?と、憂慮していたが、
強烈な個性と、パパのような極道な生き方で、なんとか
こなしているようだ。
お気に召さないモノは、手を出さない・受け取らない個性は
自分の心地よい環境に完璧を望むパパの生き方かしら?
ともかく、姉と同じ事や、姉より秀でる事が、大好きのようで
やたらと比較や自慢を、姉に押しつけていき、
詩音は、最近、その対応が、面倒になってきているようだ。
私が、自分の兄にそんな感情があったかな?と、思い出すのだが。
・・・・・
うーん、確かに尊敬していた点や、世代が上の友人を持つことに
うらやましく思ったこともあった気がする。
でも、たぶん、私はパソコンを手に入れて、それを通じて社会観を
得られるようになった時期から、兄と自分の生き方の違いが
「そりゃ当然」と思うようになったかなー。
いま、兄は幼少の頃からの公言通りの職に従事している。
私も、2005年秋口から、兄と語り合った幼少からの希望職に向けて
活動をはじめて、できれば今年2006年には、その是非を検討したい。
次男である私と、次女である真凪と、共通する部分の有無を考えた。
単に2番目という点ではないが、極道的な共通点はあるようだ。
「自分が好き」
「実力主義」
「交換条件に応じない」
「矛盾が許せない」
ああ、この子が、思春期を迎えるころには、どうなることやら....。
長女詩音も、健やかな成長を見せている。
間抜けな所を、まだカワイイと許してもらえる時期ゆえ
なんとか周囲にご迷惑をおかけすることなく過ごしているようだ。
ただ、このまま大きくなると、
「友人たちとの旅行で、全員のチケットを自宅に忘れて
元気な笑顔で駅に集合する」と思われる。
そして、だんだんと、母親に言動が似てくるのが驚きだ。
三女紗代実のあやし方などは、見よう見まね歌マネのようなものだが、
ふとした時に、横にいるのは佐和子だと勘違いし
「あう?」と引くこともアリアリなのだ。
2005年11月に、私の友人の現代美術家「木村秀和氏」が
山香町で美術展覧会を行い、長女と二人で、出かけた。
高速道路を使っても、結構な長時間のドライブになる。
幼稚園の送迎で、長女と二人きりで車に乗ることはあるが、
行楽で出かけるなら、ヌケがけなしの一家全員となるので、
二人きりで出かけるのは、けっこう久しぶりであった。
現地までの行きの道中は、現地主催者とパパとの関係や
何が行われているのかパパ予想、などで騒ぎながらの車中だ。
行った先で、しばらく過ごし、帰りの10号線にそって、
あれこれ寄り道しながら自宅へ戻る道中の車内・・・。
長女も私も少し疲れて、口数もすくなく、
彼女は、時折、音楽CDにあわせて鼻歌したり、
景色を見ながら髪を巻き上げたり、
思い出したように、最近の出来事を話し、
あるいは、疑問に思っていた「パパの謎」を問うてくる。
こちらのいいかげんな返答に、笑い声を上げて反論したり、
答え方に誠意がないやらでおこったり、
かといって、せっかく事の起こりから説明しているのに、
窓の外の様子に話題を変えたり。
((この感じ、どこかで体験したことあるぞ・・・・))
なんだか、カミサンと独身時代、ふたりで出かけた時
そんな車中のデジャブかと思ったほどだ。
まあ、確かに血縁の母娘なので、似ている部分はあろうけども、
そういう部分が似通ってくるとは、DNAの何ページだ?
もうひとり、妻という娘がおりますが、
社会的立場があるので、ネタは非公開
3人+1のお姫様たちは、2006年もニギヤカなんでしょうな。
やれやれ.....。
☆サンネット21とシステム業
BBブランチを再開すると公言しておきながら
それも成せず、なにをしていたかという理由の1つに
建設業関係の業務管理システムの開発に従事していたことが1つある。
取扱高20億円程度の事業所、中小規模のシステムであるが、
管理部門の意向により、パッケージモノの利用はせず
「フルオーダーメイドシステム」という趣旨で、
2003年12月にスタートした。
一般的なシステム開発会社に、この規模のシステムを
フルオーダーメイドで注文すると、
3000〜4000万円程度の見積が出てくるであろう。
私のネットワークセンターが存在する場所に入居する企業の
業務管理システムである。
同社の中に、この開発を目的の1つとした事業部を立ち上げ、
社内から集まった人材でチームを作った。
・プログラムも解らず
・仕様策定も解らず
・社内以外の生活を知らず
・言い伝え文化の中で育ってきた
そんなスタッフ4人を預かって、
「フルオーダーメイドシステム」
に取り組んだのである。
私が、コンピュータを、はじめて手にしたのが、
1982年3月 SHARP MZ-80K2E
1985年3月 専門誌への寄稿をキッカケにプロデビュー
以来、20数年もコンピュータが傍らにある生活をしている。
約24年間、自分がコンピュータ、あるいはシステムを身につけて
きた中から、今回の注力点は「人的資産の確保」が必須と断定し、
4人のそれぞれ後の任務を踏まえて、OJTによる
業務知識の再確認と実習を行うことを決意した。
つまり、スタッフの修練が最優先であった。
経営者との契約の中で「2005年春を目処に完成」としており、
2003年12月からのスタートであるならば、約1年半程度で
すべてを完了しなければならない。
今回、18ヶ月の中で12ヶ月を、教育に当てた。
結果、4名とも、意図した水準に達して、分担した任務を
落とすところ無く、果たしてくれた。
・指示待ち族だった人間がプロジェクト管理を果たした
・思った事を書き出せない人間がシステム仕様を統括した
・四則計算程度のプログラム経験者が18万ステップも書き上げた
・人前が苦手だったのに利用者の中心的存在になった
2005年6月に、旧システムから新システムへ移行を開始し
同年10月をもって、旧システムは完全に停止した。
現状、大きな仕様のヌケや、設計の矛盾によるトラブルは無い。
私の数少ない「成功例」の1つに計上されるシステム案件であった。
さて、同社から預かった4人のスタッフの様子からすると、
自分が24年もかけて身につけてきた知識や技術、
そして「プロとして」のプライドなど、自慢に思っていた事は
ちょっとしたポイントと、参考程度の実習を行うことで
すっかり吸収されてしまうことが実証された。
いまになって、そのことを振り返ると、
BBブランチでやりたかった事の多くが、
この18ヶ月に凝縮されているようだと感じる。
逆を言えば、私自身、出し尽くした感もあって
システム屋としての看板に、多少ほころびを感じつつ
果たして、2006年も、システム屋の看板が
自分に恥ずべき所は無いのか、ちと、再考せねばと
思い始めているところである。
かといって、
「それでカレー屋なのか?」といえば、
それは、それで、別の流れの話なのである。
ヒデと嵐、そしてアヤの恋の行方は?
このタイトルが、ピンと来る方は、どの位いるのだろうか?
知ってる人は、しばらく読み飛ばしで。
※簡易解説のため、かなり省略
フジテレビ「あいのり」という番組の話
交際相手の居ない男女が数名、1台のワゴン車に乗って、
世界各国を旅行する中で、カップルになる男女が出てくる、
あるいは片思いのまま失恋する、そんな様子を、
追いかけるバラエティー番組。
旅行中に、好意の相手へ告白し、受け止めてもらえたら
そろって、帰国する。
帰国によってワゴンに空席ができれば補充される。
5年続いている長寿番組
その中で、足かけ3年
うまく恋愛に至らず、カップルとして成立しないため
帰国できない、21歳通称ヒデ、という男性が居る。
もうひとり、22歳通称嵐(あらし)という男性。
この二人から、同時に告白を受ける、25歳女性通称アヤ。
アヤは、ヒデ・嵐、どちらを選ぶのか?
あるいは、二人とも、Noなのか?
数ヶ月に及ぶ、視聴者の関心の結論が、
先日の放送で明らかになった。
ヒデは、3年もの旅の経験から、必然的にみなのリーダー的存在で、
メンバー全員の、不安や自信の欠如について、いつも気に懸けてきた。
アヤに対しても、他のメンバーに対しても同じような事であったゆえ、
それが、いつしか、ヒデのキャラ設定とまで感じるようになった。
つまりヒデがアヤにとった行動は、
自分に自信の無いアヤに、なにかキッカケを作ってあげようと
人前での任務を意図的にアヤへ薦める。
ヒデは、アヤに自信を持って欲しく、それが愛情表現だった。
一方、嵐は、ヒデのような作戦もなく、時間を見つけては、
旅先を二人で歩いたり、自分の体験や夢を話して聞かせていた。
時間が進むにつれ、アヤは、ヒデに対して、尊敬の念を抱き、
自分が薦められて成したいろいろな任務から、
自信と前向きな姿勢を、どんどん付けていった。
そして嵐とは、ヒデのアプローチの合間で、雑談を交わす程度で。
運命の日
そして、アヤの出した結論は。
・ヒデの自信を付けてくれようという点は感謝するが、
この先、ずっとそういう関係であるなら、耐えられない。
・嵐は、お互い等身大で接して行けそうだから、嵐が好き。
この結果を受けて、私は、少なからず、ショックを受けた。
別に、あいのりに出たかったという話でなくて、
最近、失恋したという話ではなく。
私自身が、人と接するときに、「ヒデ的」であるな。
と、この放送回を見ながら、自分がフラれてしまったように感じた。
あるいは、いま、接点をもつ老若男女の友人知人から、
「フラれてしまうかもしれないな」、なんて思ったのだ。
私も、キャラ設定でいうと、「上から物言う」タイプである。
社内で部下に接するも、普段の友人たちとの接し方も。
現状、周囲も「エラそうで、強靱で、頭のいい」馬場さんが好きで
接点をもってくれていると思われる。
でも、アヤの立場の人がいたとするなら、
ずーっと、未熟と思われている劣等感を
相手に対して押しつけていく事になる。
そういえば、
doクラフト第1世代・第2世代・第3世代のスタッフ
IT事業部のスタッフ
等身大ではなかったなー。
キツイ思いをさせたから、消滅したんだろうなー。
上司にはいいけど、友人には不向きだ。
こういうのは、接客業には、どうなんだろう?
「叱られたい人が行く飲食店」にすればいいのかな?
ありえんなー。
でも、なんだか、逆に需要ありそうだな......。
☆大型1種運転免許
実は、わたし、資格やライセンスが好きなのである。
と、言うほど、取得に熱心でもないが....。
高校生時代に履歴書を盛り上げるため取得したのが
・第2種電気工事士
・丙種危険物取扱者
・マイコン検定4級(この資格、もう無いのでは?)
・普通1種運転免許
・その他(英検やら電卓やら、うさん臭いのも多数・・・・)
社会に出て
・第2種情報処理技術者
・ノベル社ネットワーク技術者
・高所作業者(Xmasの飾り付けだけのために)
取得の意図を説明しがたいモノ
・古物取扱者
・食品衛生責任者(別途、記述)
という所に、2005年末に、加わったのが
・大型1種運転免許
なのである。
公式には、カミサンが運営する幼稚園で
「スクールバス運行のピンチヒッター」ということになっている。
しかし、実は、もっと雅治さんちっくな
「無意味な理由」が存在するのである。
私が、大型免許を意識したのは、さかのぼること1993年くらいか?
テレビ大分の仕事で、高校生相撲全国大会の生中継で、
出場選手の名前を即時、画面上に表示させるシステムの
開発と運営を受託して、中継現場に参加した時のことである。
全国中継であるので、スタッフ全員の緊張度も高く、
使用機材もなども「いつもより多く回しております」という感じだ。
現場が、宇佐市ということもあって、多くのスタッフは
大きなバスに詰め込まれて、送迎される。
別便に、「中継車」があった。
現場の映像を引き込み、その場で編集加工を施し、
パラボラアンテナを通じて、大分市の本社スタジオに届けるのである。
見た目、キャンピングカーみたいなもので、
中は、TVモニターや、編集装置・送出装置などが詰め込まれている。
積み込んでいる機材が多いため、総重量が8トン近くになるらしい。
つまり、乗用車の範囲を超えた「大型車」の扱いとなるのである。
数日の現場進行の中で、この中継車の存在が大きいのである。
生中継である以上、中継装置のこいつが現場にないことには何も始まらない。
スタッフのバスが到着して、準備を進めようにも、
この中継車が来なくては、なにもできないのである。
「中継車到着待ち」という、非生産的な待ち時間もあったりする。
理由を聞けば、「中継車を運転出来る人が遅れて」というではないか。
つまり、8トンの中継車は、大型免許が無ければ、運転できず
テレビ大分のその人物のスケジュールに運行をゆだねられ、
多くのスタッフは、そのために待たされたりするわけである。
もちろん、現場のボヤキで
「誰か大型、運転できりゃなー、さっさと仕込めるになー」
なんて声も出てくる。
そんなとき、「じゃ、僕が運転しましょうか」
なんて、言えたら、どうなるんだろうかなー、と思っていた。
つまり、今回の大型免許取得の根拠は
「うーん、お困りですか?、じゃ、僕が・・・・」
と言ってみたい、というのが根源ではなかろうか....。
さて、実際の取得は、大変スムーズであった。
引用:亀の井自動車学校 鶴崎校
に、その取得指導をゆだねた。
認定校なので、学校の卒業イコール取得なのである。
12月9日、入校日に赴くが、いきなり遅刻。
旧亀の井自動車学校の場所と勘違いしていた。
30分遅れで到着し、入学手続きを済ませて、
性格テストやら視力検査やら。
どうも深視力(奥行きの視力)のテスト機が苦手。
(3本の棒の動きを見るテスト)
同校の翌営業日から教習開始。
偶然に教官は、鶴崎工業高校(私の母校)の2年先輩
「どうな、自動車学校なんて、ひさしぶりやろ」
なんて、リラックスした指導であった。
あ、実は、自動車学校は、生まれて初めてなのである。
高校後は就職コースだった私の高校では、
就職内定受領後の11月から
自動車学校に通っても良い校則であった。
当時、15万円程度であった費用について、
馬場家家族会議の結果「貸すなら用意する」
みたいな事を父親から言われ、
真意は別としても「だったらイラネーよ」
と反発し、自動車学校行きを断念。
クラスメートが、教習キットを抱えた放課後の
様子をみて、うらやましくもおもえ、
自動車学校で、女子生徒と親密になったりするのでは?
なんてことを悔やんだりもした。
結局、翌年2月末の高校仮卒を待って、
運転免許試験場に「一発ねらい」を自費で敢行。
結果、14回の受験で、普通免許を取得。
29340円で取得した。
なので、自動車学校は、人生初体験なのである。
亀の井自動車学校 鶴崎校
話は、戻って、大型教習。
パソコンや映像機材の大量搬入などで、4トンの大きい車体は
扱ったことがあるが、5トンを超える車体は
やはり知らずして路上に出るのは危険と感じる。
尻の後ろに前輪がある感覚は、初体験だ。
S字カーブで、脱輪しないように回ると、
自分自身は、コースの外、芝生の上を
空中横移動している感じであるし、
クランクも、ポール直前までフロントガラスを近づけて
ハンドルを回さねば、後輪が脱輪してしまう。
エアブレーキも、タッチのセンスを問われるし、
車長の感覚を得るには、相応の時間を費やした。
学校上層者の紹介入校のため、教官も丁寧であった。
特に、「スクールバス運転が取得の目的」と言った私に対して
大変、熱心(厳しく)、指導をして頂いた。
確かに、貨物ならいいかもしれないが、子供を乗せるには、
しばらく空荷や、我が子を客にして、相応の訓練が必要であろう。
なんだか、ずっと取得に拘束された気がしたが、
実質は、2週間であったし、日に2時間だったから、
たいへん、楽々な取得であったとおもう。
自動車学校では、大型仲間の数名と会話をした程度で、
誰か、教習者同士で、メール交換するほど仲良しは出来ず。
今の時期の生徒さんたちは、
靴のかかとを踏んでいるニイチャン・ネエチャンか、
「ちょっと位ぶつかってもいいやねーな」というオバンサンだ。
あいにく、この人たちとは住む世界が違うので、
学校での交友拡大は、なにも起きなかったのである。
大型の取得で、どんなに大きくても乗れるようになると
15トン超えの長大輸送車なんか、乗ってみたくなるのである。
食うに困ったら、長距離にでも乗るかな。
☆食品衛生責任者
8月に、ある程度拘束時間が長かった契約を終了し、
通勤が無くなったので、再び自宅生活となった。
幼少の頃から、食に関する役務に就きたいと考えていて、
2005年秋より、その是非・可否を確かめるべく、
行動を開始することにした。
具体的に、何をどうするということは、まったく決めていない。
が、「飲食店の開業」を目標として掲げ、それに向かって
言動してみるのだ。
4歳くらいに、産みの母の側で、調理に接し、
食べることも、作ることも、大変興味を持っていた。
プロを意識したのは、高校1年の夏休みに、
フレンチレストランでのアルバイト。
ここでの経験が、体の奥底に染みついた。
社会に出てからも、なんらか食に関する作業があれば
自ずから買って出て、家庭の中でも中心的存在になっている。
高校生のアルバイト時に、お世話になった料理長と再会を果たし、
2005年秋口より、再度師事することにした。
ある程度の基本や、その料理長の手法は、アルバイト時に学んでいるため、
師事といえども、あくまでも理論や製造品質などの口頭指導が中心となる。
なので、店舗に通い、洗い物をしたり、仕込み作業を手伝ったりはしていない、
この関係は、2006年も継続して行きたいと願っている。
修行とは別に、開店準備を進めている。
開業に必要な免許の1つが「食品衛生責任者」である。
調理師資格から、実務経験と調理技術を省いたような資格だ。
大分市保健所の指導による講習会に参加し、認定されて交付される。
自動車と同じで数年毎の再講習は必要だが、
生涯資格であり、全国共通資格である。
もう1つ必要な免許は、「営業許可書」である。
これは、人ではなく、店舗(施設)に発行されるという趣旨であり、
店が無くては、申請すら出来ないので、
今のところ、開業のアテのない私には無関係なのである。
師匠の提示する調理実習のカリキュラムを進めるにつれ、
同じレシピで同じ品を実現する難しさを、感じている。
レシピは、厳格な分量をもって、記述があったとしても、
室温や素材の保存状態、収穫時期や畑、流通経路によっても違ってくる。
ワインには、「テロワール」という言葉があるが、
肉でも野菜でも、果実でも香辛料でも、そういう事はあると思う。
フレンチ出身の師匠であるので、ブイヨンは必須カリキュラム。
・フォン ブラン ドゥ ヴォライユ(鶏のガラ出し汁)
鶏ガラは、スーパーでも市販されているから問題はない。(高いけど)
牛骨や豚骨となると、特殊ルートを開拓せねばならなかった。
懇意の食肉屋に依頼をして、手配を進めた。
一方、大切な人脈を通じて、大分県産食肉業者にコネクションを確保した。
・フォン ドゥ ブフ(牛の出し汁)
牛の上腕骨、1つで2〜3キロある。
ハンマーやノコで適宜分割し、20時間ほど、煮出す。
約8リットルのスープが取れる。
※玄関先で、大きな骨を分割している様は
警察に異常者通報されてもおかしくない光景だ。
「最近、あそこの奥さん、見ないけど・・・・」なんて。
さて、牛の骨といえども、味が違うのである。
ステーキで、黒毛だ和牛だ、輸入牛だと、いって、味比べもあるが、
骨も、味や香りがまったく違うのである。
美味しい肉の牛は、骨のスープも、美味しく香り高いのである。
調理は、食材にまで気を配る理由が実感できた。
であるなら、牛丼チェーン吉野屋が、輸入牛の停止で
「同じ味が出ないので販売しない」という発言に、
いまになって、同社安部社長の決断が理解できる。
☆その他
遊具
カミサンの幼稚園の遊具を刷新するにあたり、
私の交友範囲の現代美術家 牛嶋 均氏に協力を頂いた。
結果、
・木製ハウスが2棟
・滑り台付き階段
・謎の半球ドーム砂場
が出来上がった。
例によって、美術家のベクトルと、クライアントのベクトルを
調整しながら、工事関係者・協力者とのバランスを見て、
2005年春の予定が、秋口になってしまった。
しかし、結果、園児の反応からすると、大成功であろう。
この作業の中で、大人の考える安全と子供を守る安全は
違っていた事に気が付かされることも多かった。
また、現代っ子の弱体化が叫ばれる中、
わが幼稚園の子供たちは、今だタクマシイ事も知った。
故人
2005年も、数名の知人が、この世を去った。
・契約先の役員が、療養の末、永眠した。
・マリーンパレス(現うみたまご)の川原館長が逝った
前館長、故高松氏も、そして川原氏も、50代だった。
年齢は死因に無関係ではあるだろうが、気になった。
高松川原の両名には大変お世話になった。
・後藤智江モダンダンスのクラスメート 柳井氏
私が20歳で入門した際のクラスメートだ。
現ホテル芙蓉倶楽部(別府市)の総支配人が
現役のジャスダンサーで恩師であった時からだ。
訃報をきいた1〜2ヶ月前に、一緒に仕事をしたのに。
ワインセラー
シャンパンを好んで飲んでいたのだが、昨年末より
非発砲系にも少し手を戻し始めた。
5大シャトー・ロマネ社などなど
セラーも導入して、なんだか出費拡大中。
三女の誕生に、カミサンへ感謝のワインをプレゼントした。
彼女の好きな、マルク・シャガールが、ラベルを描いた逸品だ。
シャトームートン・ロートシルト1970
自動車ショールーム
福岡天神IMSの自動車ショールームに仕事で行った。
展示車両の入れ替えなどもあって、閉店後の作業だった。
あのビルの4Fにどうやって車両をいれるのか、
大型エレベーターで、廊下を自走するのか?と思ったが、
なんと、壁の一枚がはずれると、ビルの外だった。
その穴からクレーンで搬入していたのだった。
自動車業界の金銭感覚には、いつも驚かされる。
下郡
doクラフト・アンクルアンティーク・エンジョイターミナルの
本拠地として、あるいは隠れ家的基地として、機能していた
下郡倉庫を、大家の要請により、完全撤収した。
大変、いごこちのよい、クリエイティブな場所だったけども、
残念ながら、そこに集っていた人の縁もいっしょに、飛散。
無一文
10代から毎月のように通っていた居酒屋が閉店した。
いろんな事があった場所であったが、詳細は、うーん覚えていない。
カミサンとの思い出の場でもあるので、子供たちの記憶に
残るか別としても、連れて行きたくて、一家で赴いた。
閉店の噂が大分県中に流れた後だったので、予約も困難だったが
開店直後の予約時間前のほんの30分程度にはさまった。
定番を一気に楽しんで、マスターご夫妻にご挨拶。
私の飲食店のイメージも、無一文が無関係ではないだろう。
☆2006年のキーワード
今年のキーワードは2つ
・新生活
・飲食業
・60点
・新生活
長女が、小学校入学となる。
これまで通園していた幼稚園は、自営の場であり、
私も長女も、長年、組織全体が顔見知りである中での、
社会生活であった。
しかし、公立小学校に通うとなると、
まったく「客」の身分となってしまう。
運動会の対応なり、参観日以外の様子見などは、
出来なくなってしまう。
※小学校の納入業者になるという手もあるか?
長女も、困り事があれば、職員室に行くと母親がいた。
それも、なくなり、自分自身で解決しなくてはいけない。
しばらくは、いろんなところでストレスも見え隠れするだろう。
また、夏あたりに、ネットワークセンターの移設を検討している。
現状の場所では、緊急時に駆けつける時間だけタイムラグがある。
やはり、職住同居でありたいと考え、計画中だ。
それなら、広い厨房が欲しいとか、
貨物の出し入れに、駐車場は雨に濡れないよう、屋根が欲しいとか、
あれこれネタが多くなりすぎて、情報整理中である。
実現すれば、センターの移転など、ビックイベントになりそうな2006年である。
☆飲食業
上記、新生活の様子によって左右はするが、
職としての飲食業というものを、考えていきたい。
方向性としては、
・洋食店
・居酒屋
・弁当屋
・給食屋
というところか。
開業にまで至るのか、
システム構築だけに終わるのか、
試行錯誤だけの1年となるか。
人生を大きく変える大任を引き受け、2005年10月21日から、
違う自分の道を歩む覚悟でいて、それ以後のスケジュールを
まったく空欄にしていたのが、ぽっかり空いてしまった。
きっと目に見えぬ何かが、互いのためにそうさせたのであろう。
思えば、システム関連の仕事を続けてきた中で、
「誰かのお役に立った」手応えはしっかりあるが、
「誰かを幸せにした」という感は全く無いなー、と気が付いた。
しかし、私の手から生み出される飲食は、
極まれに「幸福感」を与えている時ある。
残りの人生、「誰かが幸せになる役務」で行きたいなー。
開業は未定であるが「やるか、やらぬか」いずれかの単純な話である。
☆60点
2006年は、なんでも60点で行こうとおもう。
自分でなんでもやらねば気が済まないところがあったのだが、
一人で成せることは、たいしたことではないと、思うのだ。
100%を目指して、高めていくのを止めると言うことではないが、
60%同士の誰かと力を合わせて、120%の結果を求めていきたい。
また、出しゃばりを押さえて、押さえて。